日蓮正宗法華講開信寺支部より

御書研鑚の集い 御書研鑽資料


守護国家論 20 第19章 末法における善知識

【第三に正しく末代の凡夫の為の善知識を明かさば、】
第3項に、末法の凡夫のための善知識を明確にします。

【問うて云はく、善財〔ぜんざい〕童子〔どうじ〕は五十余の知識に値ひき。】
それでは、善財〔ぜんざい〕童子は、五十余人の善知識に会いました。

【其の中に普賢〔ふげん〕・文殊〔もんじゅ〕・観音〔かんのん〕・】
その中に普賢〔ふげん〕、文殊〔もんじゅ〕、観音〔かんのん〕、

【弥勒〔みろく〕等有り。】
弥勒〔みろく〕などがいました。

【常啼〔じょうたい〕・班足〔はんぞく〕・妙荘厳〔みょうしょうごん〕・】
常啼〔じょうたい〕、班足〔はんぞく〕、妙荘厳〔みょうしょうごん〕、

【阿闍世〔あじゃせ〕等は曇無竭〔どんむかつ〕・普明〔ふみょう〕・】
阿闍世〔あじゃせ〕などは、曇無竭〔どんむかつ〕、普明〔ふみょう〕、

【耆婆〔ぎば〕・二子〔にし〕・】
耆婆〔ぎば〕、浄蔵〔じょうぞう〕、浄眼〔じょうがん〕、

【夫人〔ぶにん〕に値ひ奉りて生死を離れたり。】
浄徳〔じょうとく〕夫人に会って生死を離れました。

【此等は皆大聖なり。】
これらは、すべて偉大な聖者なのです。

【仏世を去りての後是くの如きの師を得ること難しと為す。】
仏が世を去った後、このような師を得ることは、難しいことなのです。

【滅後に於て亦竜樹〔りゅうじゅ〕・天親〔てんじん〕も去りぬ。】
仏の入滅の後、正法時代の竜樹も天親も去ってしまいました。

【南岳〔なんがく〕・天台〔てんだい〕にも値はず。】
像法時代の南岳大師や天台大師にも会えません。

【如何ぞ生死を離るべきや。】
そうした我々は、どうすれば、生死を離れることができるのでしょうか。

【答へて曰く、末代に於て真実の善知識有り。】
それは、末法においても、真実の善知識があるのです。

【所謂法華〔ほっけ〕・涅槃〔ねはん〕是なり。】
いわゆる法華経、涅槃経が、これなのです。

【問うて云はく、人を以て善知識と為すは常の習ひなり。】
それでは、人をもって善知識とするのが普通であり、いままで、そうであったのに、

【法を以て知識と為すの証有りや。】
なぜ、法を以って善知識とするのでしょうか。その証拠は、あるのでしょうか。

【答へて云はく、人を以て知識と為すは常の習ひなり。】
それは、確かに人を以って善知識とするのが普通であり、いままでは、そうですが、

【然りと雖も末代に於ては真の知識無ければ】
しかし、末法においては、真の善知識がないので、

【法を以て知識と為すに多くの証有り。】
法をもって善知識とすると言う多くの証拠があります。

【摩訶止観〔まかしかん〕に云はく「或は知識に従ひ、或は経巻に従ひて、】
摩訶止観、第1巻に「あるいは、知識に従い、あるいは、経巻に従い、

【上に説く所の一実の菩提〔ぼだい〕を聞く」(已上)。】
前に説くところの一乗真実の菩提を聞く」とあります。

【此の文の意は経巻を以て善知識と為すなり。】
この文章の意味は、経巻を以って善知識とすることです。

【法華経に云はく「若し法華経を閻浮提〔えんぶだい〕に行じ】
法華経普賢菩薩勧発品に「もし法華経を閻浮提に行じ

【受持すること有らん者は応〔まさ〕に此の念を作〔な〕すべし。】
受持する者は、まさに、このように思うべきなのです。

【皆是普賢〔ふげん〕威神〔いじん〕の力なり」(已上)。】
すべて、これは、普賢菩薩の優れた神通の力であると」とあります。

【此の文の意は末代の凡夫法華経を信ずるは】
この文章の意味は、末法の代の凡夫が法華経を信じるのは

【普賢の善知識の力なり。】
普賢菩薩という善知識の力であると言う事である。

【又云はく「若し是の法華経を受持し読誦〔どくじゅ〕し】
また同品に「もし、この法華経を受持し、読誦し、

【正憶念〔しょうおくねん〕し修習し書写すること有らん者は、当に知るべし、】
正しく記憶し、習得し、書写する者は、まさに知るべし。

【是の人は則〔すなわ〕ち釈迦牟尼仏〔しゃかむにぶつ〕を見るなり。】
この人は、すなわち、釈迦牟尼仏を見ているのである。

【仏口〔ぶっく〕より此の経典を聞くが如し。当に知るべし、】
仏の口から、この経典を聞いているのと同じなのである。まさに知るべし。

【是の人は釈迦牟尼仏を供養するなり」(已上)。】
この人は、釈迦牟尼仏を供養しているのである」とあります。

【此の文を見るに法華経は釈迦牟尼仏なり。】
この文章を見ると法華経は、すなわち、釈迦牟尼仏なのです。

【法華経を信ぜざる人の前には釈迦牟尼仏入滅を取り、】
法華経を信じない人の前では、釈迦牟尼仏は、入滅されていますが、

【此の経を信ずる者の前には滅後たりと雖も仏の在世なり。】
この経を信じる者の前では、仏滅後であっても、仏の在世なのです。

【又云はく「若し我成仏して滅度の後、十方の国土に於て】
また見宝塔品に「もし、我、成仏して滅度の後、十方世界の国土において

【法華経を説く所有らば、我が塔廟〔とうみょう〕是の経を聴かんが為の故に】
法華経を説くところがあれば、我は、この経を聴くために宝塔に乗って

【其の前に涌現〔ゆげん〕して為に証明〔しょうみょう〕を作さん」(已上)。】
その前に涌現し、法華経の真実を証明する」とあるのです。

【此の文の意は我等法華の名号〔みょうごう〕を唱へば】
この文章の意味は、我等、衆生が法華経の名号を唱えると

【多宝如来〔たほうにょらい〕本願の故に必ず来たりたまふ。】
多宝如来が本願の為に必ず出現されると言う意味なのです。

【又云はく「諸仏の十方世界に在〔あ〕って法を説くを】
また同品に「諸仏が十方世界にあって法を説いているのを、

【尽〔ことごと〕く還〔かえ〕して一処に集めたまふ」(已上)。】
ことごとく呼び還し、霊鷲山の一処に集められた」とあります。

【釈迦・多宝・十方の諸仏・普賢菩薩等は我等が善知識なり。】
釈迦如来、多宝如来、十方分身の諸仏、普賢菩薩などは、我らの善知識なのです。

【若し此の義に依らば我等も亦宿善、】
もし、この意義によるならば、我らの前世に積んだ善根は、

【善財〔ぜんざい〕・常啼〔じょうたい〕・班足〔はんぞく〕等にも】
善財〔ぜんざい〕、常啼〔じょうたい〕、班足〔はんぞく〕王などよりも

【勝〔すぐ〕れたり。彼は権経の知識に値ひ、】
優れているのです。彼は、権経の善知識に会い、

【我等は実経の知識に値へばなり。】
我らは、実経の善知識に会っているからなのです。

【彼は権経の菩薩に値ひ、我等は実経の仏菩薩に値ひ奉ればなり。】
彼は、権経の菩薩に会い、我らは、実経の仏、菩薩に会っているからなのです。

【涅槃経に云はく「法に依って人に依らざれ、】
涅槃経に「法に依って人に依らざれ、

【智に依って識に依らざれ」(已上)。】
智に依って識に依らざれ」とあります。

【依法〔えほう〕と云ふは法華・涅槃の常住の法なり。】
法に依ると言うのは、法華経、涅槃経の常住の法のことなのです。

【不依人〔ふえにん〕とは法華・涅槃に依らざる人なり。】
人に依らざれとは、法華経、涅槃経に依らない人のことなのです。

【設〔たと〕ひ仏菩薩たりと雖も】
たとえ、仏、菩薩であっても、

【法華・涅槃に依らざる仏菩薩は善知識に非ず。】
法華経、涅槃経に依らない、仏、菩薩は、善知識では、ありません。

【況んや法華・涅槃に依らざる論師・訳者・人師〔にんし〕に於てをや。】
まして、法華経、涅槃経に依らない論師、翻訳者、人師は、なおさらなのです。

【依智〔えち〕とは仏に依る。】
智に依るとは、仏の智慧に依れと言うことです。

【不依識〔ふえしき〕とは等覚已下なり。】
識に依らざれとは、等覚の菩薩以下の識に依っては、ならないと言うことです。

【今の世の世間の道俗源空〔げんくう〕の謗法の失〔とが〕を隠さんが為に】
今の時代の出家、在家が法然房源空の謗法を隠そうとする為に、

【徳を天下に挙げて権化〔ごんげ〕なりと称す。】
その徳を天下に言いふらし、勢至〔せいし〕菩薩の権化であると言っていますが

【依用〔えゆう〕すべからず。外道は五通を得て】
まったく信用できません。外道の者が五神通力を得て、

【能く山を傾け海を竭〔つ〕くすとも神通無き阿含経の凡夫に及ばず。】
山を傾け、海を干すとも、神通力のない阿含経の凡夫に劣っているのです。

【羅漢〔らかん〕を得〔え〕六通を現ずる二乗は】
小乗の阿羅漢〔あらかん〕を得て六神通を現す二乗は、

【華厳・方等・般若の凡夫に及ばず。】
華厳、方等、般若の権大乗の凡夫に劣っているのです。

【華厳・方等・般若の等覚の菩薩も】
華厳、方等、般若の権大乗の等覚の菩薩も、

【法華経の名字〔みょうじ〕・観行〔かんぎょう〕の凡夫に及ばず。】
法華経の名字即〔みょうじ〕、観行即〔かんぎょう〕の凡夫に劣っているのです。

【設ひ神通智慧有りと雖も権教の善知識をば用ふべからず。】
たとえ神通力、智慧があっても、権教の善知識を用いては、いけません。

【我等常没〔じょうもつ〕の一闡提〔いっせんだい〕の凡夫】
常に苦海に沈んでいる一闡提の我ら凡夫が

【法華経を信ぜんと欲するは】
法華経を信じようと思うことは、

【仏性〔ぶっしょう〕を顕〔あら〕はさんが為の先表〔せんぴょう〕なり。】
仏性を顕すための前兆なのです。

【故に妙楽大師の云はく】
それゆえに妙楽大師は、輔行伝弘決〔ぶぎょうでんぐけつ〕第4巻で

【「内薫〔ないくん〕に非ざるよりは何ぞ能〔よ〕く悟りを生ぜん。】
「衆生の内なる真如、仏界が外に薫〔かお〕り出ず、どうして、悟りを生じるのか。

【故に知んぬ、悟りを生ずる力は真如〔しんにょ〕に在り、】
このことから、悟りを生じる力は、真如に在り。

【故に冥薫〔みょうくん〕を以て外護〔げご〕と為すなり」(已上)。】
それゆえに内なる真如、仏界をもって外護と為すなり」と述べているのです。

【法華経より外の四十余年の諸経には十界互具無し。】
法華経以外の40余年の爾前の諸経には、十界互具を説いていないのです。

【十界互具を説かざれば内心の仏界を知らず。】
十界互具を説かなければ、衆生の内心の仏界を知らないのです。

【内心の仏界を知らざれば外〔ほか〕の諸仏も顕はれず。】
衆生の内心の仏界を知らなければ、外の諸仏も顕れないのです。

【故に四十余年の権行〔ごんぎょう〕の者は仏を見ず。】
それゆえに40余年の爾前権教を修行する者は、仏を見ないのです。

【設ひ仏を見ると雖も他仏を見るなり。】
たとえ仏を見たとしても、それは、他仏を見ているのです。

【二乗は自仏を見ざるが故に成仏無し。】
つまり、二乗は、他仏を見て、自仏を見ないので成仏できないのです。

【爾前〔にぜん〕の菩薩も亦自身の十界互具を見ざれば二乗界の成仏を見ず。】
爾前の菩薩も、また自身の十界互具を見ないので、二乗界の成仏を見ないのです。

【故に衆生〔しゅじょう〕無辺〔むへん〕誓願度〔せいがんど〕の願も満足せず。】
それゆえに衆生無辺〔むへん〕誓願度〔ど〕の願いも満足しないのです。

【故に菩薩も仏を見ず、】
それゆえに菩薩も仏を見ないのです。

【凡夫も亦十界互具を知らざるが故に自身の仏界顕はれず。】
凡夫も、また十界互具を知らないゆえに、自身の仏界も顕れないのです。

【故に阿弥陀如来の来迎〔らいごう〕も無く、諸仏如来の加護〔かご〕も無し。】
それゆえに阿弥陀如来の来迎〔らいごう〕もなく、諸仏如来の加護もないのです。

【譬〔たと〕へば盲人の自身の影を見ざるが如し。】
たとえば、盲人が自身の影を見ないようなものなのです。

【今法華経に至りて九界〔くかい〕の仏界を開くが故に、】
今、法華経に至って、九界の内にある仏界を開く故に、

【四十余年の菩薩・二乗・六凡〔ろくぼん〕始めて自身の仏界を見る。】
40余年の爾前経の菩薩、二乗、六道の凡夫が初めて自身の仏界を見るのです。

【此の時此の人の前に始めて仏・菩薩・二乗を立つ。】
この時、この人の前に初めて仏、菩薩、二乗が立てられるのです。

【此の時に二乗・菩薩始めて成仏し凡夫始めて往生す。】
この時に、二乗、菩薩が初めて成仏し、凡夫も初めて往生するのです。

【是の故に在世滅後の一切衆生の誠の善知識は法華経是なり。】
このゆえに在世、滅後の一切衆生の真の善知識は、法華経なのです。

【常途〔じょうず〕の天台宗の学者は爾前に於て当分の得道を許せども、】
通常の天台宗の学者は、爾前において、それぞれの得道を許していますが、

【自義に於ては猶当分の得道を許さず。】
厳密な意義においては、なお、それぞれの得道を許していないのです。

【然りと雖も此の書に於ては其の義を尽さず、】
しかし、この書には、その意義を書き尽くす事ができず、

【略して之を記す。追って之を記すべし。】
概略だけを記〔しる〕して、追って詳しく意義を記〔しる〕すことにします。


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