日蓮正宗法華講開信寺支部より

御書研鑚の集い 御書研鑽資料


守護国家論 13 第12章 一闡提・二乗の成仏

【爰〔ここ〕に源空の門弟、師の邪義を救ふて云はく、】
ここに法然房源空の門弟が師の邪義を救うために次のように言っています。

【諸宗の常の習ひ、設ひ経論の証文無しと雖も】
諸宗派の通例として、たとえ、経論の証拠は、ないとしても、

【義類の同じきを聚〔あつ〕めて一処に置く。】
教義の同じものを集め、一箇所にまとめており、

【而も選択集の意は】
しかも、選択集〔せんちゃくしゅう〕の本意は、

【法華・真言等を集めて雑行の内に入れ】
法華、真言などを集めて雑行〔ぞうぎょう〕の中に入れ、

【正行に対して之を捨つ。】
称名〔しょうみょう〕念仏の正行に対して、これを捨てたのだが、

【偏に経の法体〔ほったい〕を嫌ふに非ず。】
決して経文の法体そのものを嫌ったのではない。

【但風勢〔ふぜい〕無き末代の衆生を常没〔じょうもつ〕の凡夫と定め、】
ただ、仏法を求める心がない末法の衆生を、常に苦海に沈む凡夫と定め、

【此の機に易行の法を撰〔えら〕ぶ時、】
このような機根の衆生に修行し易い方法を選んだ時には、

【称名〔しょうみょう〕念仏を以て其の機に当て、】
称名〔しょうみょう〕の念仏をもって、その機根にあうものとして、

【易行の法を以て諸経に勝ると立つ。】
易行の法をもって諸教に優れていると述べただけなのである。

【権実・浅深等の勝劣を詮ずるに非ず。】
教法の権教と実教、浅と深などの優劣を論じたものではない。

【雑行と云ふも嫌って雑〔ぞう〕と云ふに非ず。】
雑行〔ぞうぎょう〕と言っているのも嫌って雑〔ぞう〕と言ったのではない。

【雑と云ふは不純を雑と云ふ。】
雑〔ぞう〕と言うのは、不純であると言っているのである。

【其の上諸の経論並びに諸師も此の意無きに非ず。】
そのうえ、諸々の経論ならびに諸師にも、この意義がないわけではない。

【故に叡山の先徳の】
それゆえに比叡山の先徳である慧心〔えしん〕僧都〔そうず〕の

【往生要集の意偏に是の義なり。】
往生要集の趣旨も、ひとえに、ここにあるではないか。

【所以〔ゆえ〕に往生要集の序に云はく「顕密の教法は其の文一に非ず。】
それゆえに往生要集の序分に「顕教、密教の教法は、その文は一つではない。

【事理の業因其の行惟〔これ〕多し。】
事行、理観の業因の行法もたくさんある。

【利智〔りち〕精進〔しょうじん〕の人は未だ難しと為〔せ〕ず、】
利智、精進の人は、それらの行も難しいとはしない。

【予が如き頑魯〔がんろ〕の者豈〔あに〕敢〔あ〕へてせんや。】
しかし、私のような頑固で愚かな者は、どうして、それらの修行ができようか。

【是の故に念仏の一門に依る」云云。此の序の意は】
このゆえに念仏の一門に依る」とある。この序分の趣旨からして、

【慧心〔えしん〕先徳も法華・真言等を破するに非ず。】
先徳の慧心〔えしん〕僧都〔そうず〕も法華、真言などを否定したものではない。

【但偏に我等頑魯〔がんろ〕の者の機に当たりて】
ただ、ひとえに我等のような頑固で愚かな者の理解力にあてはめて、

【法華・真言は聞き難く行じ難きが故に、】
法華、真言は、聞くのも難しく、修行するのも難しいからであり、

【我が身鈍根〔どんこん〕なるが故なり。敢へて法体を嫌ふには非ず。】
我が身が鈍根であるからなのである。決して教理、そのものを嫌ったのではない。

【其の上序より已外正宗に至るまで十門有り。大文第八の門に述べて云はく】
そのうえ、序より以外の本論に十門がある。大文の第八段の門に

【「今念仏を勧むること是余の種々の妙行を遮するに非ず。】
「今、念仏を勧めることは、他の種々の妙行を遮断するのではない。

【只是男女〔なんにょ〕貴賎〔きせん〕、】
ただ、これは、男女、貴賎、

【行住〔ぎょうじゅう〕坐臥〔ざが〕を簡〔えら〕ばず、】
行住〔ぎょうじゅう〕坐臥〔ざが〕を選ばず、

【時処〔じしょ〕諸縁〔しょえん〕を論ぜず、之を修するに難からず、乃至】
また、時間や場所を問わないで、これを修行するのは、難かしくないからで(中略)

【臨終には往生を願求〔がんぐ〕するに其の便宜〔びんぎ〕を得ること】
臨終において往生を願い求めるのに、その便利さを得ることは

【念仏には如〔し〕かず」(已上)。】
念仏に及ぶものはない」と述べている。

【此等の文を見るに源空の選択集と】
これらの文章を見ると、法然房源空の選択集〔せんちゃくしゅう〕と

【源信の往生要集と】
慧心〔えしん〕僧都〔そうず〕源信の往生要集とは、

【一巻三巻の不同有りと雖も、一代聖教の中には易行を撰んで】
第1巻と第3巻との違いはあるが、釈尊一代の聖教の中で易行を選んで

【末代の愚人を救はんと欲する意趣は但同じ事なり。】
末法の愚人を救おうとする考えは、全く同じことである。

【源空上人真言・法華を難行と立てゝ悪道に堕せば、】
法然房源空上人が法華、真言を難行と立てたからと言って悪道に堕ちるならば、

【慧心先徳も亦此の失〔とが〕を免〔まぬか〕るべからず】
先徳である慧心〔えしん〕僧都も、また、この罪を免〔まぬが〕れられない。

【如何〔いかん〕。】
これについては、如何〔いかが〕でしょうか。

【答へて云はく、汝師の謗法の失を救はんが為に事を】
それは、あなたの師匠である法然房源空の謗法の罪を救おうとして、

【源信の往生要集に寄せて】
慧心〔えしん〕僧都〔そうず〕源信の往生要集を引き合いに出して

【謗法の上に弥〔いよいよ〕重罪を招く者なり。】
謗法の上に、ますます、謗法を重ね、重罪を招く者と言えるのです。

【其の故は釈迦如来五十年の説教に】
その理由は、釈迦如来の50年の説教に、

【総じて先〔さき〕四十二年の意を無量義経に】
総じて前の42年の言葉の意味を無量義経において

【定めて云はく「険径〔けんぎょう〕を行くに留難〔るなん〕多きが故に」と。】
「険しい道を行くのに困難が多いゆえに」と難行であることを述べられ、

【無量義経の已後を定めて云はく】
無量義経の以後において

【「大直道〔じきどう〕を行くに留難無きが故に」と。】
「大直道を行くのに困難がないゆえに」と易行であると言っているのです。

【仏自ら難易勝劣の二道を分かちたまへり。】
これは、仏、自らが難易、勝劣の二道を立て分けられたものです。

【仏より外〔ほか〕等覚已下〔いげ〕末代の凡師に至るまで】
仏以外の等覚の菩薩から、それ以下の末法の凡師に至るまで、

【自義を以て難易の二道を分け、是の義に背く者は】
自分の勝手な意見をもって難易の二道を分けて、無量義経の仏の教えに背く者は

【外道・魔王の説に同じからんか。随って四依の大士竜樹〔りゅうじゅ〕菩薩、】
外道、魔王の説と同じなのです。したがって四依の大士である竜樹菩薩の

【十住〔じゅうじゅう〕毘婆沙〔びばしゃ〕論〔ろん〕には】
十住〔じゅうじゅう〕毘婆沙〔びばしゃ〕論〔ろん〕には、

【法華已前に於て難易の二道を分かち、】
法華経以前の経文について、難易の二道を立て分けましたが、

【敢〔あ〕へて四十余年已後の経に於て難行の義を存せず。】
強いて40余年以後の法華経については、難行であるとは言っていないのです。

【其の上若〔も〕し修し易きを以て易行と定めば、】
そのうえ、もし、修行がしやすい事から、易行と定めるのであれば、

【法華経の五十展転〔てんでん〕の行は】
法華経の五十展転の修行は、

【称名念仏より行じ易きこと百千万億倍なり。】
称名念仏よりも百千万億倍も行じ易いのではないでしょうか。

【若し亦勝を以て易行と定めば、】
また、功徳の勝れていることをもって易行と言うのであれば、

【分別〔ふんべつ〕功徳〔くどく〕品〔ほん〕に爾前四十余年の八十万億劫の間、】
法華経分別功徳品に、法華経以前の40余年の諸経における八十万億劫の間の

【檀〔だん〕・戒〔かい〕・忍〔にん〕・進〔しん〕・念仏三昧等先の】
布施、持戒、忍辱、精進、さらに念仏三昧などの禅定の

【五波羅蜜〔はらみつ〕の功徳を以て、】
五波羅蜜の功徳を、

【法華経の一念信解〔しんげ〕の功徳に比するに、一念信解の功徳は】
法華経分別功徳品に説かれている一念信解の功徳に比較すると、一念信解の功徳が、

【念仏三昧等の先の五波羅蜜に勝るゝこと百千万億〔まんのく〕倍なり。】
念仏三昧などの五波羅蜜より百千万億倍、優れているのです。

【難易勝劣と謂〔い〕ひ行浅〔ぎょうせん〕功深〔くじん〕と謂ひ、】
難易、優劣と言い、修行は、浅くとも、功徳は、深い事と言い、

【観経〔かんぎょう〕等の念仏三昧を法華経に比するに、難行の中の極難行、】
観無量寿経などの念仏三昧を法華経に比較すると、念仏三昧は、難行の中の極難行、

【勝劣の中の極劣なり。】
優劣の中の極劣なのです。

【其の上悪人・愚人を扶〔たす〕くること亦教の浅深に依る。】
そのうえ、悪人、愚人を助けようとすれば、また、教えの浅深に関わるのです。

【阿含十二年の戒門〔かいもん〕には現身に四重】
阿含12年の戒門では、現身に邪淫、偸盗〔ちゅうとう〕、殺生、妄語の四重罪、

【五逆の者に】
殺父〔せつぶ〕、殺母〔せつも〕、殺阿羅漢、出仏身血、破和合僧の五逆罪の者の、

【得道を許さず。】
得道を許していないのです。

【華厳・方等・般若・双観経等の諸経は阿含経より教深き故に】
華厳経、方等経、般若経、無量寿経などの諸大乗経は、阿含経より教えが深いので、

【観門〔かんもん〕の時重罪の者を摂すと雖も、猶〔なお〕戒門の日は】
仏道を勧める時は、重罪の者も対象にしていますが、戒門を説く段階では、五逆罪に

【七逆の者に現身の受戒を許さず。】
殺和尚、殺阿闍梨を加えて七逆罪の者には、現身の受戒を許していないのです。

【然りと雖も決定性〔けつじょうしょう〕の二乗・】
しかしながら、不成仏の決定性〔けつじょうしょう〕の二乗、

【無性〔むしょう〕の闡提〔せんだい〕に於ては戒観共に之を許さず。】
無仏性の一闡提に対しては、戒門、勧門ともに受戒、得道を許していません。

【法華・涅槃等には、唯五逆・七逆・謗法の者を摂するのみに非ず】
法華経、涅槃経では、ただ、五逆罪、七逆罪、謗法の者を対象にするだけではなく、

【亦定性・無性をも摂す。就中〔なかんずく〕】
また不成仏の二乗、無仏性の一闡提をも対象にしているのです。とりわけ、

【末法に於ては常没〔じょうもつ〕の闡提〔せんだい〕之多し。】
末法においては、常に苦海に沈む一闡提の方が多いのです。

【豈〔あに〕観経等の四十余年の諸経に於て】
どうして観無量寿経などの40余年間の諸経が、

【之を扶〔たす〕くべけんや。】
末法の衆生を助けることが、できるのでしょうか。

【無性の常没・決定性の二乗は】
無仏性の常に苦海に沈む一闡提、不成仏の二乗は、

【但法華・涅槃等に限れり。】
ただ、法華経、涅槃経に限って救うことができるのです。

【四十余年の経に依る人師は彼の経の機を取る。】
40余年間の権経に依る人師は、その衆生の理解力に合わせているとしていますが、

【此の人は未だ教相〔きょうそう〕を知らざる故なり。】
この人は、未だ教法の優劣を知らないからなのです。


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