日蓮正宗法華講開信寺支部より

御書研鑚の集い 御書研鑽資料


守護国家論 23 第22章 涅槃経は法華経の流通分

【第三に涅槃経は法華経流通の為に之を説きたまふを明かさば、】
第3項に涅槃経は、法華経の流通分の為に、これを説かれた事を明確にします。

【問うて云はく、光宅〔こうたく〕の法雲〔ほううん〕法師並びに】
それでは、光宅〔こうたく〕寺の法雲〔ほううん〕法師と

【道場の慧観〔えかん〕等の碩徳〔せきとく〕は法華経を以て】
道場寺の慧観〔えかん〕などの高徳の僧侶は、法華経を五つの時に立て分けた中の

【第四時の経と定め無常〔むじょう〕・熟蘇味〔じゅくそみ〕と立つ。】
4番目の同帰教の経文と定め、無常の熟蘇味〔じゅくそみ〕としています。

【天台智者大師は法華涅槃同味と立つると雖も】
これに対し天台智者大師は、法華経と涅槃経とは、同じ醍醐味としていますが、

【亦捃拾〔くんじゅう〕の義を存す。】
さらに法華経は、収穫、涅槃経は、拾い集めるという意義があるとしています。

【二師共に権化〔ごんげ〕なり。】
光宅寺法雲と天台大師との二師は、ともに菩薩の権〔かり〕の姿であり、

【互ひに徳行を具せり。】
双方ともに徳行を備えています。

【何れを正と為して我等の迷心〔めいしん〕を晴らすべきや。】
どちらを正しいと思って、我らの迷う心を晴らせば良いのでしょうか。

【答へて曰く、設〔たと〕ひ論師訳者たりと雖も仏教に違して】
それは、たとえインドの論師、翻訳者であっても、仏の教えに違背して、

【権実〔ごんじつ〕二教を判ぜずんば且く疑ひを加ふべし。】
権教と実教の二教を判別しなければ、疑いを加えるべきです。

【何〔いか〕に況〔いわ〕んや唐土〔とうど〕の人師たる】
まして、中国の人師であるのです。

【天台〔てんだい〕・南岳〔なんがく〕・光宅〔こうたく〕・慧観〔えかん〕・】
天台〔てんだい〕、南岳〔なんがく〕、光宅〔こうたく〕、慧観〔えかん〕、

【智儼〔ちごん〕・嘉祥〔かじょう〕・善導〔ぜんどう〕等の釈に於てをや。】
智儼〔ちごん〕、嘉祥〔かじょう〕、善導〔ぜんどう〕などの解釈においては、

【設ひ末代の学者たりと雖も依法〔えほう〕不依人〔ふえにん〕の義を存し、】
たとえ末法の学者であっても、法に依って人に依らざれとの教えを守り、

【本経本論に違〔たが〕はずんば信用を加ふべし。】
仏の根本の経典、論書に違背していなければ、信用すべきなのです。

【問うて云はく、涅槃経の第十四巻を開きたるに、】
それでは、涅槃経の第14巻の聖行品を開いてみると、

【五十年の諸大乗経を挙げて】
釈尊50年間の諸大乗経をあげて、乳味〔にゅうみ〕、酪味〔らくみ〕

【前四味〔ぜんしみ〕に譬〔たと〕へ、】
生蘇味〔しょうそみ〕、熟蘇味〔じゅくそみ〕の前四味〔ぜんしみ〕に譬え、

【涅槃経を以て醍醐味〔だいごみ〕に譬ふ。】
涅槃経をもって醍醐味〔だいごみ〕に譬えられています。

【諸大乗経は涅槃経より劣ること百千万倍と定め了〔おわ〕んぬ。】
つまり、諸大乗経は、涅槃経より百千万倍も劣ると定められているのです。

【其の上迦葉〔かしょう〕童子の領解〔りょうげ〕に云はく】
そのうえ、迦葉〔かしょう〕童子の了解した言葉として

【「我今日より始めて正見を得〔う〕。】
「我は、今日、初めて正しい知見を得た。

【是より前の我等、悉く邪見の人と名づく」と。】
これより前は、我らを、すべて邪見の人と名づける」とあります。

【此の文の意は涅槃経已前の法華等の】
この経文の意味は、涅槃経以前の法華経などの

【一切衆典を皆邪見と云ふなり。当に知るべし、】
一切の諸経をすべて邪見であると言っているのです。まさに知るべし、

【法華経は邪見の経にして未だ正見の仏性〔ぶっしょう〕を明かさず。】
法華経は、邪見の経文であって、未だ正見である仏性を明らかにしていません。

【故に天親〔てんじん〕菩薩の涅槃論に諸経と涅槃との勝劣を定むる時、】
それゆえに天親〔てんじん〕菩薩の涅槃論に、諸経と涅槃経の優劣を定める時、

【法華経を以て般若経に同じて同じく第四時に摂したり。】
法華経を般若経と同じであるとして、同じく4番目の時に入れているのです。

【豈〔あに〕正見の涅槃経を以て邪見の法華経の流通と為〔な〕さんや如何。】
どうして正見の涅槃経を邪見の法華経の流通分としてよいのでしょうか。

【答へて曰く、法華経の現文を見るに】
それは、法華経に現実に説かれている文章を見ると、

【仏の本懐残すこと無し。】
仏の本懐は、余すところなく説かれており、

【方便品に云はく「今正〔まさ〕しく是其の時なり」と。】
方便品には「今、正しく本懐を説く時なり」とあり、

【寿量品に云はく「毎〔つね〕に自ら是の念を作〔な〕さく、】
寿量品には「つねに自ら、この念をなして、

【何を以てか衆生をして無上道に入り、】
何をもってか衆生を無上道に入れ、

【速〔すみ〕やかに仏身を成就することを得せしめん」と。】
速やかに仏身を成就し、得せしめん」とあるのです。

【神力品に云はく「要を以て之を言はゞ、如来の一切の所〔しょ〕有〔う〕の法、】
また神力品に「要点を言うならば、如来の一切の所有の法、

【乃至皆此の経に於て宣示〔せんじ〕顕説〔けんぜつ〕す」(已上)。】
(中略)皆、この経において宣示〔せんじ〕顕説〔けんぜつ〕す」とあります。

【此等の現文は釈迦如来の内証は】
これらの現実の文章は、釈迦如来の内証が、

【皆此の経に尽〔つ〕くしたまふ。】
すべて、この経文に説き尽くされているからなのです。

【其の上多宝並びに十方の諸仏来集〔らいじゅう〕の庭に於て】
そのうえ、多宝如来、十方分身の諸仏が来られた庭において、

【釈迦如来の已〔い〕今〔こん〕当〔とう〕の語を証し、】
釈迦如来の、すでに説き、今、説き、まさに説いた、その中において、

【法華経の如き経無しと定め了んぬ。】
法華経に及ぶほど優れた経文は、無いと定められたのです。

【而るに多宝諸仏本土に還〔かえ〕るの後、】
しかるに多宝如来や十方分身の諸仏が、それぞれ本土に帰られた後に、

【但釈迦一仏のみ異変を存して、】
ただ、釈迦如来の一仏だけが、心に異変を生じて

【還って涅槃経を説き法華経を卑〔ひく〕くせば誰人か之を信ぜん。】
涅槃経を説いて、法華経を卑〔いや〕しまれたとしても、誰が信じるでしょうか。

【深く此の義を存ぜよ。】
深く、この意味を理解してください。

【随って涅槃経の第九を見るに、法華経を流通して説いて云はく】
このことから、涅槃経の第9巻を見ると、法華経を流通する為に

【「是の経の世に出ずること彼の菓実の一切を利益し】
「この涅槃経を世に出す理由は、多くの収穫がすべての人々に利益し、

【安楽する所多きが如し。能〔よ〕く衆生をして仏性を見〔あら〕はさしむ。】
安心させるように、衆生の中に仏性がある事を現す為である。

【法華の中の八千の声聞の記□〔きべつ〕を授かることを得て】
法華経の中の八千人の声聞が、記別を受けて、

【大菓実を成ずるが如きは、秋収〔しゅうしゅう〕冬蔵〔とうぞう〕して】
大果報を得たことは、秋に収穫し、冬に収蔵して、

【更に所作〔しょさ〕無きが如し」と。】
その後には、作業がないのと同じである」と説いています。

【此の文の如くんば】
もし、この経文の通りであるならば、

【法華経若し邪見ならば涅槃経も豈〔あに〕邪見に非ずや。】
もし、法華経が邪見であるとするならば、涅槃経も邪見ではないでしょうか。

【法華経は大収〔だいしゅう〕、涅槃経は捃拾〔くんじゅう〕なりと見え了んぬ。】
法華経は、大収穫、涅槃経は、落ち穂拾いであると明らかに説かれているのです。

【涅槃経は自ら法華経に劣るの由を称す。】
このように涅槃経が自ら法華経より劣ることを述べているのです。

【法華経の当説の文敢〔あ〕へて相違無し。】
法華経の中の当に説くであろう経と言うのは、涅槃経のことなのです。

【但し迦葉〔かしょう〕の領解〔りょうげ〕並びに】
ただし、迦葉〔かしょう〕童子の了解の文章と

【第十四の文は法華経を下〔くだ〕すの文に非ず。】
涅槃経、第14巻の五味の文章は、法華経を涅槃経に劣ると言う文章ではなく、

【迦葉自身並びに所化の衆今始めて】
迦葉〔かしょう〕童子自身、その弟子たちが、涅槃経に至って、今、初めて

【法華経の所説の常住〔じょうじゅう〕仏性〔ぶっしょう〕・】
法華経で説くところの常住の仏性や

【久遠〔くおん〕実成〔じつじょう〕を覚〔さと〕る。】
久遠〔くおん〕実成〔じつじょう〕を理解していた故に、

【故に我が身を指して此より已前は邪見なりと云ふ。】
我が身をさして、これより以前は、邪見であったと言っているのであり、

【法華経已前の無量義経に嫌はるゝ】
法華経の開経である無量義経で、末だ真実を顕さずと嫌われたように、

【諸経を涅槃経に重ねて之〔これ〕を挙げて嫌ふなり。】
法華経以前の諸経を涅槃経に重ねて、これらを嫌っているのであって、

【法華経を嫌ふには非ざるなり。亦涅槃論〔ねはんろん〕に至りては、】
法華経を嫌っているのではないのです。また、涅槃論に至っては、

【此等の論は書き付くるが如く天親菩薩の造、】
これらの論は、その中に書かれているように天親〔てんじん〕菩薩の著作であり、

【菩提流支〔ぼだいるし〕の訳なり。】
菩提流支〔ぼだいるし〕の翻訳なのです。これは、経文に相違することが多く、

【法華論〔ほっけろん〕も亦天親菩薩の造、】
法華論も、また天親〔てんじん〕菩薩の著作で、

【菩提流支の訳なり。】
菩提流支〔ぼだいるし〕の翻訳なのです。

【経文に違すること之多し。涅槃論も亦本経に違す。】
涅槃論も、また原本の経典と相違しているのです。

【当〔まさ〕に知るべし、訳者の誤りなり、信用に及ばず。】
これは、翻訳者の誤りであり、信用するに及ばないのです。

【問うて云はく、先の教に漏れたる者を後の教に之を承〔う〕け取りて】
それでは、先の教えによる得道から漏れた者を、後の教えによって受け取って

【得道せしむるを流通と称せば、】
得道させることを流通と言うのであれば、

【阿含経は華厳経の流通と成るべきや、乃至】
阿含経は、華厳経の流通となるのでしょうか。(中略)

【法華経は前四味〔ぜんしみ〕の流通と成るべきや如何。】
また、法華経は、前四味の流通となるのでしょうか。

【答へて曰く、前四味の諸経は菩薩人天等の得道を許すと雖も】
それは、前四味の諸経は、菩薩、人、天などの得道を許していますが、

【決定性〔けつじょうしょう〕の二乗・無性〔むしょう〕・闡提〔せんだい〕の】
決定性〔けつじょうしょう〕の二乗や無性〔むしょう〕の一闡提〔せんだい〕の

【成仏を許さず。其の上仏意を探〔さぐ〕りて】
成仏を許していないのです。

【実を以て之を検〔かんが〕ふるに】
そのうえ、仏の真意を探って、真実によって厳密に考えると、爾前経では、

【亦菩薩人天等の得道も無し。】
また、菩薩、人、天などの得道もないのです。

【十界互具を説かざるが故に、久遠実成無きが故に。】
十界互具を説かないゆえに、また久遠実成もないのです。

【問うて云はく、証文如何。答へて云はく、法華経方便品に云はく】
それでは、その証拠の経文は、あるのでしょうか。それは、法華経方便品に

【「若し小乗を以て化〔け〕すること乃至一人に於てもせば】
「もし、小乗教をもって(中略)一人でも教化するならば、

【我則〔すなわ〕ち慳貪〔けんどん〕に堕せん。】
我は、法を教えることを惜しむ慳貪〔けんどん〕の罪に堕ちいる。

【此の事は為〔さだ〕めて不可なり」(已上)。】
この事は、はなはだ不可なり」とあります。

【此の文の意は今選択集〔せんちゃくしゅう〕の邪義を破せんが為に】
この経文の意味については、今は、選択集〔せんちゃくしゅう〕の邪義を破すのが

【余事を以て詮〔せん〕と為〔な〕さず。】
主目的であって、他のことを詳述する場ではないので、

【故に爾前得道の有無の実義は之を出ださず。】
爾前経における得道の有無の意義は、ここでは、省略し、

【追って之を検ふべし。】
追って考えることにしましょう。

【但し四十余年の諸経は実に凡夫の得道無きが故に】
ただし、釈尊40余年間の諸経は、真実には、凡夫の得道もないのですから、

【法華経を爾前の流通と為さず。】
法華経が爾前経の流通となるわけがないのです。

【法華経に於て十界互具久遠実成を顕はし了んぬ。】
法華経において初めて、十界互具、久遠実成を説き明かしたのであり、

【故に涅槃経は法華経の為に流通と成るなり。】
それゆえに涅槃経は、法華経のための流通となるのです。


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