日蓮正宗法華講開信寺支部より

御書研鑚の集い 御書研鑽資料


守護国家論 15 第14章 二乗・無性有情の成不成

【問うて云はく、十住〔じゅうじゅう〕毘婆沙〔びばしゃ〕論〔ろん〕は】
それでは、十住〔じゅうじゅう〕毘婆沙〔びばしゃ〕論〔ろん〕は

【一代の通論なり。】
釈尊一代の聖教に通じる論であり、

【難・易の二道の内に何ぞ法華・真言・涅槃を入れざるや。】
難、易の二道の中に、どうして法華、真言、涅槃を入れないのでしょうか。

【答へて云はく、一代の諸大乗経に於て】
それは、釈尊一代の諸大乗経において、

【華厳経の如きは初頓〔しょとん〕・後分〔ごぶん〕有り。】
華厳経は、最初に即座に説いたものと後に加えたものがあるのです。

【初頓の華厳は二乗の成不成を論ぜず。】
最初に即座に説いた華厳経は、二乗の成仏、不成仏を論じていないのです。

【方等〔ほうどう〕部の諸経には一向二乗】
また、方等部の諸経では、決定性〔けつじょうしょう〕の声聞、縁覚の二乗や、

【無性〔むしょう〕闡提〔せんだい〕の成仏を斥〔きら〕ふ。】
無性〔むしょう〕の一闡提〔せんだい〕の成仏を許していないのです。

【般若〔はんにゃ〕部の諸経も之に同じ。】
般若〔はんにゃ〕部の諸経も、これと同じなのです。

【総じて四十余年の諸大乗経の意は法華・涅槃・大日経等の如く】
総じて40余年の諸大乗経は、法華、涅槃、大日経などのようには、

【二乗無性の】
決定性〔けつじょうしょう〕の二乗、無性〔むしょう〕の一闡提〔せんだい〕の

【成仏を許さず。】
成仏を許してないのです。

【此等を以て之を検〔かんが〕ふるに爾前・法華の相違水火の如し。】
これらをもって考えてみると、爾前経と法華経では、水と火のように違うのです。

【滅後の論師竜樹・天親も亦倶〔とも〕に千部の論師なり。】
釈尊の入滅した後の論師である竜樹や天親は、ともに千部の論師であり、

【所造の論に通別の二論有り。】
彼等が作り著した論に通論、別論の二論があります。

【通論に於ても亦二有り。】
通論においても、また二つがあります。

【四十余年の通論と一代五十年の通論となり。】
爾前40余年についての通論と一代50年についての通論です。

【其の差別を分かつに決定性〔けつじょうしょう〕の二乗・】
その差別をするのに決定性〔けつじょうしょう〕の声聞、縁覚の二乗、

【無性〔むしょう〕闡提〔せんだい〕の成不成を以て】
無性〔むしょう〕の一闡提〔せんだい〕の成仏、不成仏をもって、

【論の権実を定むるなり。】
その論の権教と実教を定めるのです。

【而るに大論〔だいろん〕は竜樹菩薩の造、】
しかるに大智度論〔だいちどろん〕は、竜樹菩薩の著作であり、

【羅什〔らじゅう〕三蔵〔さんぞう〕の訳なり。】
羅什〔らじゅう〕三蔵〔さんぞう〕の翻訳です。

【般若経に依る時は二乗〔にじょう〕作仏〔さぶつ〕を許さず。】
般若経に依る時は、二乗作仏を許していません。

【法華経に依れば二乗作仏を許す。】
法華経に依れば、二乗作仏を許しています。

【十住毘婆沙論も】
このことから十住〔じゅうじゅう〕毘婆沙〔びばしゃ〕論は

【亦竜樹菩薩の造、羅什三蔵の訳なり。】
また、竜樹菩薩の著作で羅什〔らじゅう〕三蔵〔さんぞう〕の翻訳なのです。

【此の論も亦二乗作仏を許さず。】
この論も、また二乗作仏を許していないのです。

【之を以て知んぬ、法華已前の諸大乗経の意を申のべたる論なることを。】
これを以て、法華以前の諸大乗経を述べた論である事を理解してください。

【問うて云はく、十住毘婆沙論の何処〔いずこ〕に】
それでは、この論のどこに

【二乗作仏を許さゞるの文出でたるや。】
二乗作仏を許さない文章があるのでしょうか。

【答へて云はく、十住毘婆沙論の第五に云はく(竜樹菩薩造羅什訳)】
それは、この十住〔じゅうじゅう〕毘婆沙〔びばしゃ〕論の第5巻に

【「若し声聞〔しょうもん〕地〔じ〕及び辟支仏〔びゃくしぶつ〕地〔じ〕に】
「声聞地〔じ〕、辟支仏地〔じ〕に

【堕する是を菩薩の死と名づく。則〔すなわ〕ち一切の利を失す。】
堕ちることを菩薩の死と名づけ、すべての利益を失う。

【若し地獄に堕すとも是くの如き畏〔おそ〕れを生ぜず。】
たとえ、もし、地獄に堕ちるような事があっても、このような怖れはない。

【若し二乗地に堕すれば則ち大怖畏〔だいふい〕を為〔な〕す。】
しかし、もし、二乗地に堕ちれば、こうなる怖れが大なのである。

【地獄の中に堕すとも畢竟〔ひっきょう〕して仏に至ることを得。】
つまり、たとえ地獄の中に堕ちたとしても究極的には、仏に至ることができるが、

【若し二乗地に堕すれば畢竟して仏道を遮〔しゃ〕す」(已上)。】
もし、二乗地に堕ちれば、究極的に仏道を遮〔さえぎ〕られる」とあるのです。

【此の文二乗作仏を許さず。宛〔あたか〕も】
この文章は、二乗作仏を許していないのです。

【浄名等の於仏法中〔おぶっぽうちゅう〕】
ちょうど浄名経などの仏法の中に於いて

【以如敗種〔いにょはいしゅ〕の文の如し。】
腐敗した種の如くであると言う文章と同じなのです。

【問うて云はく、大論は般若経に依って二乗作仏を許さず。】
それでは、大智度論において、般若経では、二乗作仏を許さずに、

【法華経に依って二乗作仏を許すの文如何。】
法華経では、二乗作仏を許すと言う文章が、どこにあるのでしょうか。

【答へて曰く、大論の一百に云はく(竜樹菩薩造羅什三蔵訳)】
それは、大智度論の第100巻に

【「問うて曰く、更に何の法か甚深〔じんじん〕にして般若に勝れたる者有って】
「問うていわく、般若経の教えより深い、どのような優れた経があって、

【而も般若を以て阿難に嘱累〔ぞくるい〕し、而も余経を以て菩薩に嘱累するや。】
般若を阿難〔あなん〕に付嘱し、他の余経を菩薩に付嘱するのか。

【答へて曰く、般若〔はんにゃ〕波羅蜜〔はらみつ〕は秘密の法に非ず。】
答えていわく、般若〔はんにゃ〕波羅蜜〔はらみつ〕は、秘密の法に非ず。

【而るに法華等の諸経は阿羅漢〔あらかん〕の】
それなのに法華経などの諸経は、阿羅漢の

【受決〔じゅけつ〕作仏〔さぶつ〕を説く。所以に大菩薩能〔よ〕く受持し用ふ。】
授記差別を説くゆえに大菩薩が、よく受持したまう。

【譬へば大薬師の能く毒を以て薬と為すが如し」と。】
たとえば、大薬師が、よく毒を以て薬と為すが如し」とあります。

【亦九十三に云はく「阿羅漢の成仏は論義者の知る所に非ず。】
また、大智度論の第93巻に「阿羅漢の成仏は、論師の知る所に非ず。

【唯仏のみ能く了〔りょう〕したまふ」(已上)。】
ただ、仏のみが、よく知っている」とあります。

【此等の文を以て之を思ふに、論師の権実は宛も仏の権実の如し。】
これらの文章をもって思うと、論師の権実の立て分けも、仏の権実と同様なのです。

【而るを権経に依る人師猥〔みだ〕りに】
ところが権経による人師が、みだりに理由もなく

【法華等を以て観経等の権説に同じ、】
法華経などを観無量寿経等の権教の教説と同じとし、

【法華・涅槃等の義を仮りて浄土三部経の徳と作〔な〕し、】
法華経、涅槃経などの教えを借りて、浄土三部経の功徳の力とし、

【決定性〔けつじょうしょう〕の二乗・無性〔むしょう〕の闡提〔せんだい〕・】
決定性〔けつじょうしょう〕の二乗、無性〔むしょう〕の一闡提、

【常没〔じょうもつ〕等の往生を許す。】
常に苦海に没している衆生も、浄土三部経で極楽往生を許されると、

【権実雑乱〔ぞうらん〕の失〔とが〕脱れ難し。】
このように言っているのは、権実雑乱〔ぞうらん〕の罪なのです。

【例せば外典〔げてん〕の儒者〔じゅしゃ〕の内典を賊〔ぬす〕みて】
例えば、仏教以外の儒者が仏典を盗んで

【外典を荘〔かざ〕るが如し。謗法の失免〔まぬか〕れ難きか。】
外道の教えを飾ったのと同じで、謗法の罪を免〔まぬが〕れられないのです。

【仏自ら権実を分けたまふ。其の詮を探るに】
仏は、自ら権教、実教を立て分けられましたが、その要点を探究すると

【決定性の二乗・無性有情の成不成是なり。】
決定性〔けつじょうしょう〕の二乗、無性有情の成仏、不成仏がこれなのです。

【而るに此の義を弁へざる訳者爾前の経々を訳せる時、】
ところが、この意義が分からない翻訳者は、爾前の経々を漢訳するにあたって、

【二乗の作仏〔さぶつ〕・無性の成仏を許す。】
二乗の作仏、無性の一闡提も成仏できるとしたのです。

【此の義を知る訳者は爾前の経を訳する時】
仏の本義を知る翻訳者は、爾前の経を漢訳する時、

【二乗の作仏・無性の成仏を許さず。】
二乗の作仏、無性の一闡提の成仏は、不可としたのです。

【之に依って仏意を覚らざる人師も】
このために、仏の本意を理解できない人師も

【亦爾前の経に於て決定性・無性の成仏を】
また、爾前経でも決定性〔けつじょうしょう〕の二乗、無性の一闡提の成仏が

【明かすと見て法華・爾前同じき思ひを作〔な〕し、】
明かされていると思って、法華経と爾前経とが同じであると思ったり、

【或は爾前の経に於て】
あるいは、爾前経において、

【決定無性を嫌ふの文を見、】
決定性〔けつじょうしょう〕の二乗、無性の一闡提を嫌う文章を見て、

【此の義を以て了義〔りょうぎ〕経と為〔な〕し、】
二乗作仏を許さない爾前経を了義経とし、

【法華・涅槃を以て不了義経と為す。、】
二乗作仏を許す法華経、涅槃教を不了義経となしたりしたのです。

【共に仏意を覚らず、】
これは、いずれも仏の本意を理解せずに、

【権実二教に迷へり。】
権経と実経の違いに迷っているからなのです。

【此等の誤りを出ださば但源空一人に限るのみに非ず、】
これらの誤りを取り出すならば、ただ法然房源空一人に限ることではなく、

【天竺〔てんじく〕の論師並びに訳者より唐土〔とうど〕の人師に至るまで】
インドの論師、翻訳者から、中国の人師に至るまで、

【其の義有り。所謂地論〔じろん〕師・摂論〔しょうろん〕師の】
その誤りがあり、いわゆる地論〔じろん〕宗の人師と摂論〔しょうろん〕宗の人師が

【一代の別時意趣〔べつじいしゅ〕、】
釈尊一代聖教における即時成仏を別時意趣〔べつじいしゅ〕であるとし、

【善導・懐感〔えかん〕の法華経の】
また善導〔ぜんどう〕とその弟子である懐感〔えかん〕が、法華経方便品の

【一称南無仏の別時意趣、】
一度、南無仏と唱えればと言う文章を別時意趣〔べつじいしゅ〕と誤ったことなど、

【此等は皆権実を弁へざるが故に出来する処の誤りなり。】
これらは、すべて権教、実教を理解できていない故に出てきた誤りなのです。

【論を造る菩薩、経を訳する訳者、】
論書をつくった菩薩、経典を翻訳した三蔵、

【三昧〔さんまい〕発得〔ほっとく〕の人師猶以て是くの如し。】
思索を続けた人師でも、この誤りを犯しているのですから、

【何に況んや末代の凡師に於てをや。】
まして、末法の凡師においては、なおさらなのです。

【問うて云はく、汝末学の身に於て】
それでは、あなたは、未熟な身でありながら、

【何ぞ論師並びに訳者人師を破するや。】
どうして、このように論師、翻訳者、人師を批判するのですか。

【答へて云はく、敢〔あ〕へて此の難を致すこと勿〔なか〕れ。】
それは、当然の事ながら、無闇やたらと、このような批判をしては、なりません。

【摂論師並びに善導等の釈は】
摂論〔しょうろん〕宗の人師や善導〔ぜんどう〕などの解釈は、

【権実二経を弁へずして猥〔みだ〕りに法華経を以て】
権経と実教の違いを弁〔わきま〕えないで、みだりに法華経をもって

【別時意趣と立つ。】
別時意趣〔べつじいしゅ〕の方便と立てたもので、

【故に天台・妙楽の釈と水火を作す間、】
したがって、天台大師や妙楽大師の解釈とは、水と火の違いがあるのです。

【且〔しばら〕く人師の相違を閣〔さしお〕いて】
そこで、しばらく、このような人師同士の相違は、さしおいて、

【経論に付いて是非を検〔かんが〕ふる時、】
経論に基づいて、その是非を考えてみると、

【権実の二教は仏説より出でたり。】
権教と実教の二教の判別は、仏の教えから出たものであり、

【天親〔てんじん〕・竜樹〔りゅうじゅ〕重ねて之を定む。】
天親や竜樹も何度も、このことを定めています。

【此の義に順ずる人師をば且く之を仰ぎ、】
そこで、この教えに従っている人師を、しばらく仰〔あお〕いで話を聞き、

【此の義に順ぜざる人師をば且く之を用ひず。】
この教えに従わない人師は、しばらく用いないことにしたのです。

【敢へて自義を以て是非を定むるに非ず。】
あえて、自分の考えをもって、何が正しいかを決めるのではなく、

【但相違を出だす計りなり。】
ただ、論師と翻訳者、人師と仏の経えとの相違を正しているだけなのです。


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