御書研鑚の集い 御書研鑚資料
富木常忍御消息文 01 富木常忍について
富木氏は、元は、因幡〔いなば〕の国、現在の鳥取県の法美郡〔ほうみのこおり〕、富城庄〔ときしょう〕に住んでいた役人でしたが、富木常忍〔とき・じょうにん〕の父の代に下総〔しもうさ〕の国、葛飾〔かつしか〕郡、八幡〔やわた〕庄、若宮〔わかみや〕、現在の千葉県市川市に移住しました。
このことは、大聖人が弘安元年(西暦1278年)8月に伊予房日頂に授与した御本尊に、日興上人が「因幡国富城五郎入道の息伊予房日頂の舎弟寂仙房に之を付属す」(富要八巻222頁)と添書されており、また、富士一跡門徒存知事にも「因幡の国富城荘〔ときのしょう〕の本主今は常忍、下総国〔しもうさのくに〕五郎入道日常に賜ふ、」(御書1871頁)とあることからも明らかです。
また、大聖人の御消息の宛名をみると、その大部分が「富木」と書かれていますが、その中には「土木」「富城」と書かれているものもあり、出身地からみると鳥取県の富城庄〔ときしょう〕の「富城」が、その源であったと思われます。
その後は、下総の守護である千葉氏に仕えており、以前は、問注所の役人と考えられてきましたが、近年、中山法華経寺に現存する聖教紙背文書の解明が進み、それによると、富木常忍は、千葉氏の有力な家臣で、それも執事のような地位にあったと推定されています。
その為、日蓮大聖人からは、漢文で認〔したた〕められた法門についての御書を多く頂いており、富木常忍が、それらの書状を読み、理解することができる高い教養を備えていたことを示しています。
「紙背文書」とは、すでに役割を終えた文書の裏を利用して、別の文書を書いたもので、大聖人直筆の文書の中で130通にも及ぶものがそれでした。
富木常忍が千葉頼胤〔よりたね〕の執事として、毎日、若宮の自らの屋敷から守護所に通い、主君の千葉頼胤の決済を受け、幕府からの通達を受けたり、領主などとの折衝、訴訟などの事務手続きを行っていたとすると、常忍の手元には、多くの書類が集まったものと思われ、不要となった書類を、大聖人の要文筆写の為にさしあげたのが、この聖教紙背文書であったと推測されます。
しかも、鎌倉幕府の有力御家人である千葉氏の被官であれば、たびたび鎌倉に出向くことも多かったと考えられ、幕府の役人の中にも、当然、顔見知りも多くいたに違いないので、様々な情報が富木常忍に集まり、必然的に日蓮大聖人門下の中で指導的な立場になった事は、容易に理解できます。
富木常忍の入信の時期や、どのような経過かについては、あまり定かでは、ありません。
建長5年(西暦1253年)12月9日の「富木殿御返事」では、すでに大聖人と行き来する間柄となり、法門についての談義をされているようなので、同年同月の立宗宣言された直後に、すでに富木常忍は、大聖人と知り合っていたことになります。
入信の動機についても、諸説あり、いくつもの伝承がありますが、立宗宣言直後に東条景信の迫害によって清澄寺から逃げ延びられた日蓮大聖人が何らかの伝手〔つて〕によって富木常忍を頼られたと思われます。
それから7年後の文応元年(西暦1260年)7月16日に大聖人は、鎌倉において立正安国論を著〔あらわ〕され、前の執権、北条時頼に上奏〔じょうそう〕されましたが、それに幕府からは、なんの反応もなく、一ヵ月の間、黙殺され、ついに8月27日の夜になって、突然、念仏の僧および信徒の一団が、松葉ヶ谷〔まつばがやつ〕の草庵を襲い、大聖人を殺害しようとしたのです。
大聖人は、危うく、この松葉ヶ谷の法難を免〔まぬが〕れられ、ひとまず鎌倉の地を避け、下総の富木常忍の館に身を寄せたと言われています。
その時、富木常忍は、自邸の近くに堂を建てて寄進し、大聖人は、ここで長期にわたって法を説かれたと言われています。
一説によれば、一日に一座で百日間、つまり百座の説法をされたとも伝えられています。
この時に、富木常忍邸の近くの大田乗明、曾谷教信、秋元太郎などが大聖人に帰依したと言われ、下総における信徒は、一時に拡大したのです。
富木常忍は、文永7年(西暦1270年)9月、下総国真間〔まま〕の弘法寺〔ぐほうじ〕に釈迦仏を造立〔ぞうりゅう〕しました。
この事は、富木常忍の信心の現れであり、釈迦仏造立をもって、真間の地に日蓮大聖人の仏法を広げようとしたものと言えます。
当時の寺は、付近の人々にとっては、すべての中心になっていたからです。
しかし、言うまでもなく日蓮大聖人の正意においては、日寛上人の末法相応抄でも明らかなように、絵像、木像の本尊は、立てず、あくまでも大聖人御真筆の曼荼羅をもって本尊とするのです。
しかし、当時は、三大秘法の本尊、開顕に未だ至らず、日本中が念仏を称えている時期であったので、もっぱら題目の流布に努められていたので、佐渡以前においては、本尊のことについては、それほど厳しく指摘されずに、釈尊の一体仏を一往容認されていたのです。
富木常忍は釈迦仏を造立供養することが、自身の福徳となり、大聖人の弘教の一歩前進につながると信じていたのです。
まして、富木常忍は、もともと天台教学を学び、当時の仏教の常識で造像を好む傾向があって、この時期が像法の末の姿として、大聖人が釈迦仏造立を賞讃されたとも言えるのです。
しかし、これが、この後の真間山〔ままさん〕弘法寺〔ぐほうじ〕の姿を決定して、今の釈迦像を本尊とする邪宗の姿として残っているのです。
このように、これは、大聖人の一往の御化導であった事を知らねばなりません。
文永8年(西暦1271年)9月12日、平左衛門尉頼綱は、いきなり松葉ヶ谷の草庵を襲い、日蓮大聖人を捕らえて竜の口で斬罪にしようとしました。
しかし、いかに平左衛門尉の権力をもってしても、末法の御本仏、日蓮大聖人を殺害する事は出来ず、竜の口から相模国依智へ移された大聖人は、翌日の9月14日には、富木常忍に宛てて、竜の口法難の第一報を認〔したた〕められています。
また、日蓮大聖人は、約一ヵ月後の10月10日に依智を出発され、12日の旅を経て、10月21日に越後国寺泊〔てらどまり〕に着かれました。
そこから、また、富木常忍に宛てて、寺泊御書を送られています。
また、10月28日には、佐渡に渡られ、11月1日に塚原三昧堂〔さんまいどう〕に入られました。
11月23日付の富木入道殿御返事は、塚原到着後の最初の手紙です。
そこで「又貴辺に申し付けし一切経の要文、智論の要文、五帖一処に取り集めらるべく候。其の外論釈の要文、散在あるべからず候。」(御書488頁)と富木常忍に一切経などの要文の保管を託されています。
一説によれば、竜の口法難後の松葉ヶ谷の草庵は、富木常忍が後始末をし、そのために大聖人が集められた教典などは、すべて富木常忍の許〔もと〕に保管されたと言われています。
文永9年(西暦1272年)5月頃には、富木常忍を中心に幕府に対して赦免運動を起こしたようですが、大聖人が、この行動を禁止されました。
このように大聖人が佐渡流罪で不在の中、富木常忍は、門下の重鎮として、信徒の中心となり、身近な大田乗明、曾谷教信、さらには、鎌倉の四条金吾などとも連絡を取り合い、団結して門下を守ってきたのです。
そのような苦難の中で、文永10年(西暦1273年)4月には、大聖人の御内証を明かされた甚深の法門である法本尊開顕の書、観心本尊抄を頂いています。
このように佐渡流罪では、大聖人から、依智、寺泊、塚原からと、行く先々で、まず最初に御消息を頂いており、また佐渡流罪中に、これほど多くの御書を頂いている信徒は、他には、いないのです。
これらの御消息を拝すると、富木常忍個人に与えられていると言うよりも、富木常忍を通して門下一同に与えられたと思われる内容が多くあります。
つまり、個人的な御手紙は、別にしても、門下一同に与えられた御手紙は、おおむね、まず、富木常忍のもとに届けられているのです。
このように、富木常忍は、大聖人の在家信徒の重鎮として、門下の中心となっていた事がうかがわれます。
しかし、大聖人が佐渡流罪中は、富木常忍自身にとって大変な時期で、蒙古を迎え撃つ準備の為に幕府の命で主君の千葉頼胤〔よりたね〕が肥前国の小城〔おぎ〕の地に下向しており、千葉頼胤に仕えていた被官、所従の多くも主君に従ったものと思われます。
富木常忍にとって、もはや蒙古襲来は、他人事ではなかったのです。
文永11年(西暦1274年)10月、ついに蒙古は来襲し、主君の千葉頼胤は、その戦いで負傷し、翌、建治元(1275)年八月肥前国の小城の地で37歳の若さで亡くなってしまいました。
長年にわたって千葉頼胤に仕えてきた富木常忍にとって、千葉頼胤の死は、千葉家における立場を微妙なものにした事でしょう。
さらに、この状況の中にあって、富木常忍は、建治2年(西暦1276年)2月下旬には、九十歳を超える長寿であった母を亡くしたのです。
人一倍、母に対する孝養が厚かった富木常忍にとって、母の死は、たとえようのない悲しみであったに違いありません。
富木常忍は、さっそく亡き母の遺骨を持って身延の大聖人のもとを訪れています。
また、長年に渡って常忍の母に尽くして来た富木常忍の妻、尼御前は、建治元年(西暦1275年)頃から健康を害し、病魔に悩まされていましたが、その後、病状は、一進一退を続け、弘安二年(西暦1279年)、ふたたび、病に伏せたと思われます。
大聖人は、尼御前の身を心配され、四条金吾の治療を受けるように勧められ、病気平癒を御祈念されています。
この富木尼御前は、妙常と呼ばれ、駿河国の重須〔おもす〕に生まれ、伊予守橘定時に嫁ぎましたが、まもなく定時が死去した為に、
富木常忍のもとに嫁いだとされ、富木常忍もまた、最初は、大田乗明の姉を娶〔めと〕りましたが、不幸にも早く死別した為に、その後、この尼御前と再婚したと伝えられています。
御書の内容から尼御前は、妻としてよく内助の功に励み、嫁としてよく姑に仕え、しかも孝養に厚い女性であったと推察できるのですが、こうした尼御前の人柄もさることながら、大聖人に帰依してから、純真な信仰を貫〔つらぬ〕き、大聖人は、この純真な信心に対し、弘安2年(西暦1279年)に御本尊を授与されています。
日興上人が「因幡の国の富城寂仙房日澄の母尼に弘安二年九月之を与え申す」と添書された大聖人の御本尊が今も現存しています。
晩年には、実の子である日頂と日澄が日興上人に帰伏して富士に移ったことから、尼御前もまた娘の乙御前とともに故郷である富士の地に帰り、出地の重須の地で死去したと伝えられています。
没年については、墓石のある重須正林寺の寺伝によれば、嘉元元年(西暦1303年)11月1日と言われています。
弘安元年(西暦1278年)9月、富木常忍は、弘法寺〔ぐほうじ〕の了性〔りょうしょう〕房と言う真言の学僧と法論を行い、勝利を収めました。
富木常忍は、四条金吾や池上兄弟と同じ武士でしたが、大聖人からの御消息や、この問答の内容からすると、かなり天台教学に精通していたようです。
大聖人は、富木常忍から、この問答の報告を受けられ、ただちに常忍抄を認〔したた〕められて、日蓮大聖人の弘める法門は、「第三の法門は天台・妙楽・伝教も粗之を示せども未だ事了〔お〕へず。所詮末法の今に譲り与へしなり。」(御書1285頁)と天台、妙楽、伝教の天台宗などではなく、第三の法門であることを示されています。
さらに、今回の勝利は、了性〔りょうしょう〕房への天罰であり、謗法の科〔とが〕が顕われた結果で今後の法論を禁じられています。
これは、富木常忍や伊予房日頂が日蓮大聖人の法門を天台宗と同じに考えている恐れがあったからであり、当時の真言宗などに対してであれば、釈迦仏法の法華最勝の理〔ことわり〕で破折できても、末法の御本仏である日蓮大聖人の真意が伝わらない恐れがあったからです。
実際に富木常忍の友人である曾谷教信が観心本尊抄の「未得」の文字について、迹門は、読むべきでないと言う疑義を起こした事で、日蓮大聖人から、それは、間違った考えであると指摘されているのです。
ともあれ、この真間問答は、富木常忍の教学の深さをいかんなく発揮したものと言えるでしょう。
なお、了性〔りょうしょう〕房は、この問答の敗北によって、弘法寺〔ぐほうじ〕から逃げ出し、その後、弘法寺〔ぐほうじ〕には、富木常忍の義理の息子である伊予房日頂が住んで、ここを拠点として、弘教に励んだと言われています。
日蓮大聖人、身延入山5年後の弘安二年(西暦1279年)9月、駿河国に熱原法難が起こると、熱原の農民信徒二十人が捕らえられ、鎌倉へ送られました。
この法難において日興上人を助けて活躍したのが、日秀、日弁でした。
この二人は、捕えられる事はありませんでしたが、大聖人の依頼により、富木常忍は、この下野房日秀と越後房日弁を自邸に迎え、滞在させています。
このように、富木常忍は、大聖人にとって、いざと言う時に頼れる心強い信徒であったのですが、竜の口の法難での四条金吾や、この熱原法難においての日秀、日弁ほどには、事の重大さが理解できず、事実、この熱原法難は、大聖人にとって出世の御本懐たる本門戒壇の大御本尊御図顕の機縁となるという最も重要な意義をもっていましたが、日秀、日弁の保護に当たった常忍にとっては、さほど、その事については、関心がなかったようです。
日亨上人は、富士日興上人詳伝の中で「大聖人は熱原法難を御自身の大法難と聖人御難事におおせられてあっても、下総に避難した日秀・日弁等には、刻心鏤骨〔ちょうしんるこつ〕忘るることはできぬ恨事〔こんじ〕であっても、富木殿以下の人々には、さほど重事には扱わなかった」と述べられています。
富木常忍の信解のいたらなかった面が、このようなところに表れているのかも知れません。
さらに、弘安2年(西暦1279年)5月17日に御認〔したた〕めの四菩薩造立抄を拝すると、富木常忍は、「本門久成〔くじょう〕の教主釈尊を造り奉り、脇士〔きょうじ〕には久成地涌の四菩薩を造立〔ぞうりゅう〕し奉るべしと兼ねて聴聞仕り候ひき。然れば聴聞の如くんば何れの時かと云云」(御書1368頁)と大聖人に質問しています。
天台の学僧を論破するほどの学識が深い富木常忍でしたが、大聖人が末法の御本仏であり、御本尊は、南無妙法蓮華経の大漫荼羅が正意であることを理解できず、観心本尊抄の「仏像出現せしむべきか」(御書654頁)の言葉に捕らわれ、大聖人に久遠実成の釈尊造立の時期を尋ねたのです。
日顕上人猊下は、「やはり人には、それぞれのお役目があるのです。末法万年の一切衆生救済のために、観心本尊抄の真の意義の相伝を承〔う〕ける方は、日興上人様なのであります。また、むしろ、他の弟子には信解できない故に、大聖人様は日興上人以外には、真の血脈を伝えることができなかったのです」(大日蓮569号)と述べられ、富木常忍が観心本尊抄の意義を理解できなかった理由を御相伝の上から明確に御指南されています。
富木常忍のような大聖人外護の重鎮であっても、それは、世法での事であって、大聖人が上行菩薩の再誕にして本地は、末法の御本仏であると言う仏法の難信難解を信解することは、できなかったのです。
しかし、そうした中で、すべてを第二祖日興上人に付嘱されて、日蓮大聖人が弘安5年(西暦1282年)10月13日に池上宗仲の館において、御入滅され、その御葬送の折には、門下の外護の代表として、富木常忍は、香炉を持って参列しています。
しかし、身延に入山された日興上人とは、疎遠となり、弘安8年(西暦1285年)に身延で奉修された三回忌法要にも参詣することなく、
出家した富木常忍は、正安元年(西暦1299年)3月20日に84歳で亡くなりました。
このように日蓮大聖人が、富木常忍に重書を送られ続けられたのは、富木常忍が法門を理解できるからではなく、富木常忍こそ、御書を後世に残す人であると信頼されたからなのです。
当時の不安定な状況を考える時、御書を後世に残すことは、非常に困難なことでした。
社会的基盤が安定していない者に保管させたとすれば、年月が経つ間に散逸〔さんいつ〕してしまうに違いないので、この点、富木常忍は、幕府の有力な御家人である千葉氏に仕える武士であり、しかも古くからの信徒で、大聖人は、常忍こそ御書を後世まで伝えるべき任を果たす適任者であると考えられ、厳護を託されたと推察できるのです。
その証拠に永仁7年(西暦1299年)3月4日、富木常忍は、自邸内の持仏堂を改めて法華寺とし、そこに厳護している御書の保存に関する「定め置く条々の事」と題する置文を定め、これによると大聖人の御書は、けっして寺の外に持ち出してはならないと定め、その但し書きに、御書の貸し出しを禁ずることは、いかにも法を惜しむようではあるが、貸し出して失っては、惜しむ罪よりも重いと、その理由を述べています。
どうしても披見する必要のある時は、寺の中で見るならば、差し支えはないと定めているのです。
富木常忍は、この置文を制定しおわって後、3月6日には、さらに常修院本尊聖教事と題し、法華寺に所蔵する御書の目録を作成しており、この主な内容は、観心本尊抄、法華取要抄、四信五品抄、佐渡御書、法華行者逢難事、観心本尊得意抄、聖人知三世事、常忍抄、始聞仏乗義、四菩薩造立抄、治病大小権実違目など、その多くが大聖人の御内証を明かされ、宗旨の肝要を述べられた重要な御書であり、この他に富木常忍が集めたであろう立正安国論一巻、開目抄上下を始め、多くの写本があり、それらも保存していたのです。
これからもわかるように、大聖人の御書を後世まで守り伝えることについて、いかに強い使命感と責任感を持っていたかがしのばれます。
大聖人滅後、多くの弟子檀那が、大聖人から頂いた御書を、仮名で書かれているから先師の恥になると言って焼いたり、すき返ししたりする中で、この富木常忍は、厳として、大聖人の御書を守り抜いたのです。
富木常忍が、この日常置文、常修院本尊聖教事を著したのは、永仁七年(西暦1299年)、大聖人滅後の18年目でありました。
永仁3年(西暦1295年)10月以降には、自ら本尊を書写して与えるなど、大聖人の御教示に反する行動をとり、日興上人からも離れ、独自の中山門流を形成し、こうして、常忍開基とする現在の中山法華経寺があるのですが、ここに観心本尊抄など五十数編の大聖人の御真筆御書が現存しているのです。
中山法華経寺が大聖人の法義にはずれ、邪義に陥った科〔とが〕は、科〔とが〕として、この一点に関しては、常忍の護法の大功績といって良いでしょう。
また富木常忍には、少なくとも三人の子供がいました。
日精上人の富士門家中見聞の日澄〔にっちょう〕伝に「五郎入道常忍、後に日常と号す、子息二人、兄は伊予阿闍梨日頂なり、則ち高祖直弟子六人の内なり、其の次は寂仙房日澄是なり、誕生は弘長二年」と記され、長男は、のちに六老僧の一人となった伊与日頂であり、次男は、のちに富士重須〔おもす〕の初代学頭となった寂仙房日澄〔にっちょう〕です。
日頂〔にっちょう〕は、建長4年(西暦1252年)、駿河国重須に生まれ、文永4年(西暦1267年)に、大聖人の弟子となったと伝えられています。
以後、修学に励み、文永7年(西暦1270年)、父の常忍が、真間〔まま〕の弘法寺〔ぐほうじ〕に釈迦仏を造立した時には、大聖人から開眼供養の導師を任〔まか〕されるほど行学が進んでいました。
大聖人が佐渡に流罪された折にも、伊与殿を器量物であるとたいへん褒められ、文永10年(西暦1273年)には、大聖人の側〔そば〕にあって給仕に務め、大聖人は、また、その才能を認められていたのです。
大聖人が身延に入山されてからは、弘法寺〔ぐほうじ〕に住んでいましたが、日蓮大聖人が弘安元年(西暦1278年)8月に日頂に授与された御本尊には「因幡国富城五郎入道の子伊与房日頂の舎弟寂仙房に之を付与す」と添書されており、身延に下総にと活躍し、弘安二年の熱原法難では、大聖人は、下総地方における指導者として、大きな信頼を寄せられていました。
弘安5年(西暦1282年)10月8日、大聖人は、本弟子六人を定められ、日頂は、その一人に選ばれたのです。
それほど、大聖人の信頼の大きかった証拠であるのです。
しかしながら、大聖人御入滅後は、墓所輪番にも応ぜず、あまつさえ正応4年(西暦1291年)には、「天台法華宗沙門」と名乗って幕府に申状を奉呈するなど、大聖人の正意に反する行動をとるようになりました。
その後に、詳しく事情は、わかりませんが、父、常忍から勘当を受けて、正安4年(西暦1302年)には、真間弘法寺を去って、先に富士に移っていた弟の日澄を頼って、重須に行き、日興上人に帰伏しました。
晩年には、自ら重須に正林寺を建てて住み、文保元年(西暦1317年)3月8日、66歳をもって死去しました。
なお、日頂の実父は、伊与守橘定時であり、父の死によって母が富木常忍と再縁したため、常忍の義子となったとされています。
日澄については、日精上人の日蓮聖人年譜に「同(弘長)二年富城寂仙房日澄、下総に生ず。日頂の舎弟、日向の弟子なり、富士に帰伏し、学頭となるなり」とあり、弘長2年(西暦1262年)、下総国若宮に生まれ、幼少にして民部日向の弟子として出家しました。
寂仙房と称し、大聖人から日澄の法号を賜り、修学に励み、日向に従って、日興上人離山後の身延に登りましたが、永仁年中に甲斐国の地頭、左衛門四郎光長が新堂を建立して一体仏を安置したことに、日澄は、疑問を抱き、日興上人の許〔もと〕に行って大聖人所立の正義を聞き、正安2年(西暦1300年)、日向が、その新堂並びに一体仏を開眼供養するに及んで、日向と義絶し、富士重須へ行き日興上人に帰伏しました。
以来、日興上人の側〔そば〕にあって教学の興隆に勤め、乾元元年(西暦1302年)、重須談所の初代学頭となりました。
延慶2年(西暦1309年)には、日興上人の命によって「富士一跡門徒存知の事」の草案を作ったと言われています。
日順阿闍梨血脈には「日澄和尚は・即日興上人の弟子・類聚相承の大徳なり、慧眼明了にして普く五千余巻を知見し・広学多聞にして悉く十宗の法水を斟酌す、行足独歩にして殊に一心三観を証得し・宏才博覧にして良に三国の記録を兼伝す、其の上内外の旨趣・倭漢の先規・孔老の五常・詩歌の六義・都て通ぜざる無し」と、その学匠としての博学ぶりを顕彰しています。
延慶3年(西暦1310年)3月14日、49歳で重須で死去しています。
乙御前については、詳しいことはわかっていませんが、富士門家中見聞にも「乾元元年には下総国伊与阿闍梨日頂、富士に参詣なり、寂仙房帰伏の後、初めて参詣し給へり、此年日澄に本尊授与し給ふ、同母公妙常并に乙御前母子兄弟四人富士に移りて爰に於て終焉なり」とあり、日亨上人の富士日興上人詳伝には「澄師が先に富士に移りしによって、それをたのみに、母の妙常も、姉の乙御前も、また頂師自身も、心身ともに興師に帰伏して」と、乙御前を日澄の姉とし、日興上人に帰伏したと述べています。
徳治3年(西暦1308年)2月7日、重須にて死去したことが正林寺の寺伝に記されています。