日蓮正宗法華講開信寺支部より

御書研鑚の集い 御書研鑽資料


富木常忍御消息文 26 始聞仏乗義(就類相待抄)

【始聞仏乗義 建治四年二月二八日 五七歳】
始聞仏乗義 建治4年2月28日 57歳御作


【青鳧〔せいふ〕七結〔ゆ〕ひ下州より甲州に送らる。】
銭七結〔しちゆ〕を下総〔しもふさ〕より甲斐の身延に送られました。

【其の御志悲母〔ひも〕の第三年に相〔あい〕当たる御孝養なり。】
その御志は、悲母の三回忌の追善供養の為です。

【問ふ、止観〔しかん〕明静〔みょうじょう〕】
それでは、章安大師が止観の明静〔みょうじょう〕なることは、

【前代未聞の心如何。】
前代に未だかつて聞かないと讃められた意味は、どう言う事でしょうか。

【答ふ、円頓〔えんどん〕止観〔しかん〕なり。】
それは、円頓止観〔えんどんしかん〕の法門を讃めたのです。

【問ふ、円頓止観の意何〔いかん〕。】
それでは、円頓止観〔えんどんしかん〕と言うのは、どういう事なのでしょうか。

【答ふ、法華三昧〔まい〕の異名なり。】
それは、法華三昧〔ほっけざんまい〕の異名なのです。

【問ふ、法華三昧の心如何。】
それでは、法華三昧〔ほっけざんまい〕とは、どういう事でしょうか。

【答ふ、夫〔それ〕末代の凡夫法華経を修行する意に二有り。】
それは、末代の凡夫が法華経を修行する方法であり、それには、二つがあります。

【一には就類種〔じゅるいしゅ〕の開会〔かいえ〕、】
一には、就類種〔じゅるいしゅ〕の開会〔かいえ〕、

【二には相対種〔そうたいしゅ〕の開会なり。】
二には、相対種〔そうたいしゅ〕の開会〔かいえ〕です。

【問ふ、此の名は何より出でたるや。】
それでは、この名目は、どこから出たのでしょうか。

【答ふ、法華経の第三薬草喩品に云へる「種相体性」の四字なり。】
それは、法華経巻三の薬草喩品に言う「種、相、体、性」の四字からです。

【其の四字の中に第一の種の一字に二あり。】
その四字の中の第一の「種」の一字に、二つの意味があり、

【一には就類種、二には相対種なり。】
一には、就類種〔じゅるいしゅ〕、二には、相対種〔そうたいしゅ〕です。

【其の就類種とは釈に云はく】
その就類種〔じゅるいしゅ〕の開会〔かいえ〕とは、法華玄義巻九下に

【「凡〔およ〕そ心有らん者は是正因〔しょういん〕の種なり。】
「およそ心のある者は、皆、正因〔しょういん〕の仏種である。

【随聞一句は是了因〔りょういん〕の種なり。】
随って経文の一句でも聞くのは、了因〔りょういん〕の仏種である。

【低頭〔ていず〕挙手〔こしゅ〕は是縁因〔えんいん〕の種なり」等云云。】
頭を低く垂れ、手を挙げて拝むのは、縁因〔えんいん〕の仏種である」とあり、

【其の相対種とは、煩悩と業と苦との三道、】
また相対種〔そうたいしゅ〕の開会〔かいえ〕とは、煩悩と業と苦との三道を、

【其の当体を押さへて】
その当体をそのままに

【法身〔ほっしん〕と般若〔はんにゃ〕と解脱〔げだつ〕と称する是なり。】
法身と般若と解脱と称する事なのです。

【其の中に就類種の一法は、宗は法華経に有りと雖も】
この中で就類種〔じゅるいしゅ〕の開会の一法は、根本は、法華経に有るのですが、

【少分は又爾前の経々にも通ず。】
少分は、まだ爾前の経々にも通じているのです。

【妙楽云はく「別教には唯就類の種有って而も】
妙楽大師は、法華文句記巻七下に「別教は、ただ就類〔じゅるい〕の種は、あるが、

【相対無し」云云。】
相対種〔そうたいしゅ〕はない」と解釈しています。

【此の釈に別教と云ふは本の別教には非ず、】
この解釈書の別教と言うのは、もとのままの別教の事ではなく、

【爾前の円或は他師の円なり。】
爾前経に説かれた円教、あるいは、天台家以外の他師の立てた円教の事なのです。

【又法華経の迹門の中、】
また法華経の迹門の中、

【供養舍利〔しゃり〕已下二十余行の法門も】
方便品第二の「舎利を供養する者」以下の二十余行に説かれた法門も、

【大体〔だいたい〕就類種の開会なり。】
だいたい就類種〔じゅるいしゅ〕の開会〔かいえ〕なのです。

【問ふ、其の相対種の心は如何。】
それでは、その相対種〔そうたいしゅ〕の心とは、どのようなものでしょうか。

【答ふ、止観に云はく「云何〔いか〕なるか円の法を聞く。】
それは、摩訶止観巻一上に「どのようなことが円教の法門を聞くと言う事なのか。

【生死即法身〔しょうじそくほっしん〕なり、】
それは、この生死の身が、そのまま仏の法身常住の身体となり、

【煩悩即般若〔ぼんのうそくはんにゃ〕なり、】
煩悩が、そのまま仏の般若の智慧となり、

【結業即解脱〔けつごうそくげだつ〕なりと聞くなり。】
悪業が、そのまま仏の解脱の徳となると聞く事である。

【三の名有りと雖も而も三の体無し。】
三つの名があるけれども、三つの体があるのではない。

【是一体なりと雖も而も三の名を立つ。】
本来は、一体であるのを、三つの名を立てたのである。

【是の三即ち一相にして其れ実には異なり有ること無し。】
この三つは、すなわち一相であり、その本体は、別々ではない。

【法身究竟〔くきょう〕すれば般若解脱も亦〔また〕究竟す。】
法身が究竟すれば、般若も解脱もまた究竟する。

【般若清浄なれば余も亦清浄なり。】
般若が清浄であれば、余の二つも、また清浄である。

【解脱自在なれば余も亦自在なり。】
解脱が自在であれば、余の二つも、また自在である。

【一切の法を聞くも亦是くの如し。】
一切の法を聞く事は、また、このようなものである。

【皆仏法を具して減少する所無し。】
皆、仏法を具えて減少するところがない。

【是を聞円〔もんえん〕と名づく」等云云。】
これを円教を聞くと名づけるのである」と解釈されています。

【此の釈は即ち相対種の手本なり。】
この解釈は、すなわち相対種〔そうたいしゅ〕の開会〔かいえ〕の手本なのです。

【其の意如何。】
その意味は、どういう事でしょうか。

【答ふ、生死とは我等が苦果の依身なり。】
それは、生死とは、我らが過去の業の果報としての苦しみによる身なのです。

【所謂五陰〔おん〕・十二入・十八界なり。】
いわゆる、五陰、十二入、十八界なのです。

【煩悩とは見思〔けんじ〕・塵沙〔じんじゃ〕・無明〔むみょう〕の三惑なり。】
煩悩とは、見思、塵沙、無明の三惑なのです。

【結業とは五逆・十悪・四重等なり。】
結業とは、五逆、十悪、四重禁などです。

【法身とは法身如来、般若とは報身如来、解脱とは応身如来なり。】
法身とは、法身如来、般若とは、報身如来、解脱とは、応身如来なのです。

【我等衆生無始〔むし〕曠劫〔こうごう〕より已来此の三道を具足し、】
我ら衆生は、無始の昔から、この煩悩、業、苦の三道を具足しているのですが、

【今法華経に値〔あ〕ひて三道即三徳となるなり。】
いま、法華経にあって、三道が、そのまま、法身、般若、解脱の三徳となるのです。

【難じて云はく、火より水は出でず、石より草は生ぜず。】
それでは、御聞きしますが、火から水は、出ません。石から草は、生じません。

【悪因は悪果を感じ、善因は善報を生ずるは仏教の定まれる習ひなり。】
悪因は、悪果を感じ、善因は、善報を生じるのは、仏教の定まった習いなのです。

【而るに我等其の根本を尋ね究〔きわ〕むれば、】
しかるに、我らの出生の根本を尋ね、究めてみれば、

【父母の精血赤白二渧〔てい〕和合して一身と為る。】
父母の精血、赤白二渧が和合して一身となったのであり、

【悪の根本不浄の源なり。】
悪の根本、不浄の源では、ないでしょうか。

【設〔たと〕ひ大海を傾けて之を洗ふとも清浄なるべからず。】
たとえ大海の水を傾けて洗っても、清浄になるはずがないのです。

【又此の苦果の依身は其の根本を探り見れば】
また、この苦果の依身は、その根本を探ってみれば、

【貪〔とん〕・瞋〔じん〕・癡〔ち〕の三毒より出でたるなり。】
貪、瞋、癡の三毒より、生じたのです。

【此の煩悩・苦果の二道に依って業を構ふ。】
この煩悩と苦果の二道によって業を作っているのです。

【此の業道即ち是結縛〔けつばく〕の法なり。】
この業道が我らを三界六道の苦しみの世界に縛りつけているのです。

【譬へば籠〔かご〕に入れる鳥の如し。】
譬えば、籠〔かご〕に入れられた鳥のようなものです。

【如何ぞ此の三道を以て三仏因と称するや。】
どうして、この煩悩、業、苦の三道をもって三仏因と称するのでしょうか。

【譬へば糞を集めて栴檀〔せんだん〕を造れども】
譬えば、糞を集めて栴檀の香木を造っても、

【終に香ばしからざるが如し。】
けっして栴檀の香りは、しないようなものです。

【答ふ、汝が難大いに道理なり。我此の事を弁へず。】
あなたの不審は、大変、もっともな事です。私は、この事を心得ていません。

【但し付法蔵〔ふほうぞう〕の第十三・天台大師の高祖・竜樹菩薩、】
ただし付法蔵の第十三祖で、天台大師の高祖である竜樹菩薩は、

【妙法の妙の一字を釈して】
妙法の妙の一字を解釈して

【「譬へば大薬師の能く毒を以て薬と為すが如し」等云云。】
「譬えば、大薬師が、よく毒をもって薬とするが如し」と言われています。

【毒と云ふは何物ぞ、我等が煩悩・業・苦の三道なり。】
毒とは、何を差して言っているのかと言うと、我らの煩悩、業、苦の三道の事です。

【薬とは何物ぞ、法身・般若・解脱なり。】
薬とは、何かと言うと、法身、般若、解脱の三徳なのです。

【「能以毒為薬」とは何物ぞ、】
「よく毒を以って薬とする」とは、どのような事かと言うと、

【三道を変じて三徳と為すのみ。】
三道を変じて、三徳とする事です。

【天台云はく「妙は不可思議に名づく」等云云。】
天台大師は、法華玄義に「妙は、不可思議と名づく」と言われているからです。

【又云はく「夫〔それ〕一心乃至】
また摩訶止観巻五上に「一心に十法界を具している。

【不可思議〔ふかしぎ〕境〔きょう〕の意此〔ここ〕に在り」等云云。】
乃至、不可思議境という意義は、ここにあり」と言われています。

【即身成仏と申すは此是〔これ〕なり。】
即身成仏の法門と言うのは、この事なのです。

【近代の華厳・真言等、此の義を盗み取って我が物と為す。】
近代の華厳宗や真言宗などは、この義を盗み取って自分のものにしているのです。

【大偸盗〔ちゅとう〕、天下の盗人是なり。】
大盗賊であり、天下の盗人です。

【問うて云はく、凡夫の位も此の秘法の心を知るべきや。】
それでは、凡夫の我らにも、この秘法の意義を理解する事が出来るでしょうか。

【答ふ、私の答へは詮無し。竜樹菩薩の大論(九十三也)に云はく】
それは、私の見解による答えは、無益であり、竜樹菩薩の大智度論巻九十三には

【「今漏尽〔ろじん〕の】
「今、煩悩を断じ尽くした者は、仏には、なれないと決まっているが

【阿羅漢〔あらかん〕還って作仏すと言ふは、】
阿羅漢は、それによって返って成仏すると言うことを、

【唯仏のみ能く知ろしめす。】
ただ、仏のみが知っているのである。

【論議とは正しく其の事を論ずべきも測り知ること能〔あた〕はず。】
論議とは、正しく、その事を論ずべきであるが、それを測り知る事は、できない。

【是の故に応に戯論〔けろん〕すべからず。若〔も〕し仏を求得〔ぐとく〕する時】
この故に戯れの論議をしてはならない。もし仏になる事ができた時は、

【乃〔いま〕し能〔よ〕く了知〔りょうち〕す。余人は信ずべし、】
それを了解することができる。それ以外の人は、ただ信ずべきであって、

【而も未だ知るべからず」等云云。】
それ以外に未だ了解することは、できない」と言われています。

【此の釈は爾前の別教十一品の断無明、】
この解釈は、法華経以前の別教に説く十一品の無明を断じた菩薩、

【円教の四十一品の断無明の大菩薩普賢・文殊等も】
円教に説く四十一品の無明を断じた大菩薩である普賢菩薩、文殊菩薩なども

【未だ法華経の意を知らず、】
未だ法華経の意義は、分からないのです。

【何に況んや蔵・通二教の三乗をや、】
ましてや、それ以下の蔵教、通教の二教における三乗においては、言うまでもなく、

【何に況んや末代の凡夫をやと云ふ論文なり。】
末代の凡夫においては、言うまでもないと論ぜられた文章なのです。

【之を以て案ずるに、法華経の】
この事をもって考えると、法華経方便品の

【「唯仏与仏乃能究尽」とは、】
「唯仏と仏とのみが、よく究め尽くしている」とは、

【爾前の灰身滅智〔けしんめっち〕の二乗の煩悩・業・苦の三道を押さへて、】
爾前経において灰身滅智した二乗が、法華経において煩悩、業、苦の三道が

【法身・般若・解脱と説くに二乗還って作仏す。】
そのまま、法身、般若、解脱の三徳となると説かれ、それで成仏したのです。

【菩薩・凡夫も亦是くの如しと釈するなり。】
菩薩や凡夫も、また同じく成仏することが可能となったと解釈されたのです。

【故に天台の云はく「二乗の根敗〔こんばい〕之を名づけて毒と為す。】
ゆえに、天台大師は、法華玄義巻六下に「二乗の根敗したのを名づけて毒とする。

【今経に記を得るは即ち是〔これ〕毒を変じて薬と為す。】
法華経において成仏の授記を得たのは、すなわち、これ毒を変じて薬と為す。

【論に云はく、余経は秘密に非ず】
論には、余経は、秘密の経ではない。

【法華は是秘密なり」等云云。】
法華経は、これ秘密の経なり」と言われているのです。

【妙楽云はく】
妙楽大師は法華玄義釈籤巻十三には

【「論に云はくとは大論なり」云云。】
「論に言うとは、大智度論なり」と注釈されています。

【問ふ、是くの如く之を聞いて何の益有らんや。】
それでは、以上のような法門を聞いて、何の利益があるのでしょうか。

【答へて云はく、始めて法華経を聞くなり。】
それは、始めて法華経を聞くと言う事なのです。

【妙楽云はく「若し三道】
妙楽大師は、止観輔行伝弘決巻一の二に「もし三道が、

【即ち是三徳と信ぜば尚能く二死の河を度〔わた〕る。】
そのまま三徳であると信ずれば、よく、分段、変易の二種の生死の河を渡る。

【況んや三界をや」云云。】
ましてや、三界をや」と言われています。

【末代の凡夫此の法門を聞かば、唯我一人のみ成仏するに非ず、】
末代の凡夫が、この法門を聞くならば、唯、自分一人が成仏するだけではなく、

【父母も又即身成仏せん。此第一の孝養なり。】
父母も、また、即身成仏するのです。これが第一の孝養です。

【病の身たるの故に委細ならず。又々申すべし。】
病身である為に詳しくは、書けません。またまた申し上げましょう。

【建治四年(太歳戊寅)二月廿八日   日蓮花押】
建治4年2月28日    日蓮花押

【富木殿】
富木殿へ


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