日蓮正宗法華講開信寺支部より

御書研鑚の集い 御書研鑚資料


四条金吾御消息文 01 四条金吾について

四条金吾について

四条金吾は、正式には、四条〔しじょう〕中務〔なかつかさ〕三郎〔さぶろう〕左衛門尉〔さえもんのじょう〕頼基〔よりもと〕と称し、北条氏の一族である江馬光時に仕えていました。
官位が中務・左衛門尉であったことから、同じ唐制の官位名を用いて四条金吾とも通称されていました。
この名から、代々、地位のある武士であったことがわかります。
四条金吾自身の出生地や生誕、年月日は、不明ですが、その父である四条頼員〔よりかず〕は、承久の乱の以後、北条氏の一門、名越朝時に仕えており、やがて寛元三年(西暦1245年)に名越朝時が没した後、その子である名越光時に仕えました。
しかし、その翌年、名越光時が執権、北条時頼追放に加担しているとの嫌疑を受け、出家して、その無実を主張しましたが、幕府によって伊豆の江馬へ流罪されてしまいました。
この時、家臣の多くが光時を見捨てて離散しましたが、四条金吾の父、四条頼員は、流罪地の伊豆、江馬へと供をしたのです。
その後、光時は、許されて鎌倉に戻り、以後、江馬氏を名乗りましたが、家督を子の江馬親時にゆずり、蟄居生活を送ります。
その中でも四条頼員は、忠誠を貫き、やがて建長五年(西暦1253年)に没しました。
四条金吾の母は、池上家の娘であると思われ、詳細は不明ですが、文永七年(西暦1270年)に没しています。
四条金吾殿御書に「妙法聖霊は法華経の行者なり日蓮が檀那なり、(省略)是こそ四条金吾殿の母よ母よと、同心に頭をなで悦びほめ給ふらめ。」(御書470頁)と述べられているところから、四条金吾と共に大聖人に帰依していたことがわかります。
四条金吾の兄弟に関しては、大聖人の手紙に依ると、少なくとも三人はいたようで、また妹もいたと思われ、崇峻天皇御書に「竜象と殿の兄とは殿の御ためにはあ〔悪〕しかりつる人ぞかし。」(御書1172頁)とあり、四条金吾は、三郎と言う名前の通り、長男ではなく、種々御振舞御書には、「左衛門尉兄弟四人馬の口にとりつきて、」(御書1060頁)とあり、また四条金吾殿御書にも「又御をとど〔舎弟〕どもには」(御書1198頁)とあり、四条金吾殿御返事にも「兄弟にもすてられ」(御書1287頁)とあることから、弟も数人いた事がわかります。
四条金吾の妻は、日蓮大聖人に日眼女と呼ばれ、四条金吾女房御書にも「夫婦共に法華の持者なり。」(御書464頁)とあるように四条金吾と共に大聖人に帰依していたと思われます。
その一方で王舎城事に「いかに法華経を御信用ありとも、法華経のかたき〔敵〕をとわり〔遊女〕ほどにはよもおぼ〔思〕さじとなり。」(御書975頁)とあるように日眼女の祈りが叶わないことについて、謗法に原因があることを諭されています。
日蓮大聖人と四条金吾との最初の出会いが、いつ、どこであったか。また頼基がどのような経路で、信仰の道に入ったかは不明です。
しかし、日蓮大聖人が弘教の第一歩を鎌倉の地に印〔しる〕した建長五年(西暦1253年)は、四条金吾の父が没した年でもあり、また執権北条時頼が三年がかりで大伽藍、禅宗の建長寺を完成させた年でもありました。
おそらく鎌倉中の武士も鎌倉幕府の執権である時頼、時宗などの参詣を目の当たりにして、それに同調する鎌倉武士も多くいたでしょう。 また家督を継いだ四条金吾もそのひとりであったかもしれません。
名越の松葉ヶ谷の草庵において日蓮大聖人が、禅宗は、天魔波旬の法なりと説くのを聞いて、鎌倉在住の工藤吉隆、池上宗仲、池上宗長などと共に出かけていって出会い、帰依した事は、おおいに考えられるのです。
また前述の通り、四条金吾の家系が父親の代から北条氏の一門、名越朝時に仕えていた名越一門であり、松葉ヶ谷の草庵が現在では、どこにあったかは不明ですが、おそらく北条一族の有力者であった名越家の邸宅の近くであることは確かであり、その点でも四条金吾と日蓮大聖人の出会いが、この時期であったことを裏付けられています。
それ以降、鎌倉における日蓮大聖人門下の在家の中心となり、下総(千葉県)の富木常忍、大田乗明、曾谷教信などとともに、常に外護の任にあたっていたものと思われます。
文永八年(西暦1271年)の二月頃から六月頃にかけておそった旱魃は、全国的に国土を荒廃させ、民衆は水飢饉から食糧難に陥り、苦悩の底に沈んだのです。
こうした状況に幕府は、極楽寺の良観に雨乞いの祈禱を命じました。
そのときのことは、頼基陳状に「去ぬる文永八年六月(太歳辛未)十八日大旱魃〔かんばつ〕の時、彼の御房祈雨の法を行なひて万民をたすけんと申し付け候由、日蓮聖人聞き給ひて、此〔これ〕体〔てい〕は小事なれども、此の次いでに日蓮が法験〔ほうけん〕を万人に知らせばやと仰せありて、良観房の所へ仰せつかはすに云はく、七日の内にふらし給はゞ日蓮が念仏無間と申す法門すてゝ、良観上人の弟子と成りて二百五十戒持つべし、雨ふらぬほどならば、彼の御房の持戒げ〔気〕なるが大誑惑なるは顕然〔けんねん〕なるべし。」(御書1131頁)とあるように、雨乞いの祈禱をする極楽寺の良観に勝負を挑まれたのです。
しかし、結果は、「七日の内に露ばかりも雨降らず。」(御書1132頁)とあるように、良観はその面目を失ったのです。
これによって良観は、大聖人を深く怨み、種々御振舞御書に「さりし程に念仏者・持斎〔じさい〕・真言師等、自身の智は及ばず、訴状も叶はざれば、上郎〔じょうろう〕尼ごぜんたちにとりつきて、種々にかま〔構〕へ申す。」(御書1057頁)とあるように、法論においても訴状においても日蓮大聖人を排除できないと知って、最後には、幕府の実力者や、その妻たちに働きかけ大聖人を弾圧しようと画策しはじめたのです。
そして、ついに幕府の実権を握っていた平左衛門尉頼綱を動かし、同年九月十二日、日蓮大聖人は、理不尽にも平左衛門尉の軍勢にとらえられ、鎌倉の竜の口で頸を斬られようとしたのです。
それについて、四条金吾殿御返事に「何事よりも文永八年の御勘気の時、既に相模の国竜口〔たつのくち〕にて頸切られんとせし時にも、殿は馬の口に付きて足歩〔かち〕赤足〔はだし〕にて泣き悲しみ給ひ、事実〔まこと〕にならば腹きらんとの気色なりしをば、いつの世にか思ひ忘るべき。」(御書1501頁)と仰せにあるように竜口の法難において、大聖人と共に殉死の覚悟で御供申し上げたのは、門下の中でも四条金吾ただ一人でした。
その時に種々御振舞御書に「江のしま〔島〕のかたより月のごとくひかり〔光〕たる物、まり〔鞠〕のやうにて辰巳〔たつみ〕のかたより戌亥〔いぬい〕のかたへひかり〔光〕わたる。」(御書1060頁)とあるように、不思議な力によって命がたすかり、十月十日、流罪の地、佐渡へと旅立たれたのです。
この地で日蓮大聖人は、人本尊開顕の書である開目抄を御執筆され、四条金吾に送られました。
同じく種々御振舞御書に「去年の十一月より勘へたる開目抄と申す文二巻造りたり。頸切らるゝならば日蓮が不思議とゞ〔留〕めんと思ひて勘へたり。此の文の心は日蓮によりて日本国の有無はあるべし。」(御書1065頁)とあるように日蓮大聖人こそ、末法の御本仏であることを四条金吾に対して顕されたのです。 このことからしても、日蓮大聖人がいかに四条金吾を信頼されていたかがわかります。
このころ鎌倉では、蒙古襲来が時間の問題となり、まさに前年に日蓮大聖人が平左衛門尉に向かって断言された他国侵逼難が現実となってあらわれてきたのです。
さらに文永九年(西暦1272年)二月十五日には、同じく日蓮大聖人が予言された自界叛逆難である北条一門の内乱、北条時輔の乱が起きたのです。
この北条時輔に江馬光時の弟である江馬教時、江馬時章が加担し、光時も、謀反人の一族との嫌疑を受け、江馬家の命運は、まさに風前の灯となったのですが、謀反の疑いは晴れ、四条金吾もことなきを得たのです。
この鎌倉での騒動が鎮まった後、四条金吾は、未だ幕府の眼が厳しく、江馬家に仕える身であり勝手な行動を起こすことは不可能に近かったにも関わらず、主君に暇〔いとま〕を願い、ただ日蓮大聖人にお目通りしたい一念で佐渡へ向かったのです。
まさに四条金吾の不惜身命の信心であり、流刑地である佐渡までの旅路は、並み大抵のことではなかったのですが、そうした困難を乗り越え、ついに大聖人に佐渡の一の谷で再会できたのです。
四条金吾殿御返事には、この時の様子を「それのみならず、佐渡の島に放たれ、北海の雪の下に埋〔うず〕もれ、北山の嶺の山下風〔やまおろし〕に命助かるべしともをぼへず。年来〔としごろ〕の同朋にも捨てられ、故郷へ帰らん事は、大海の底のちびき〔千引〕の石の思ひして、さすがに凡夫なれば古郷の人々も恋しきに、在俗の宮仕〔みやづか〕へ隙〔ひま〕なき身に、此の経を信ずる事こそ希有〔けう〕なるに、山河を陵〔しの〕ぎ蒼海〔そうかい〕を経〔へ〕て、遥〔はる〕かに尋ね来たり給ひし志、香城〔こうじょう〕に骨を砕〔くだ〕き、雪嶺に身を投げし人々にも争〔いか〕でか劣り給ふべき。」(御書1501頁)と讃嘆されています。
このように四条金吾は、信心強盛であった半面、いかにも鎌倉武士らしく実直で豪胆であり、主君耳入此法門免与同罪事に「心は日蓮に同意なれども身は別なれば、与同罪〔よどうざい〕のがれがたきの御事に候に、主君に此の法門を耳にふれさせ進〔まい〕らせけるこそありがたく候へ。」(御書744頁)とあるように主人の江馬氏を折伏しては、不興を買い、しばしば同僚とも衝突しました。
このことから、大聖人から、しばしば「御辺は腹あしき人なれば火の燃ゆるがごとし。一定人にすかされなん。」(御書1179頁)と指摘され、崇峻天皇御書においても、崇峻天皇が短気な性格のため家臣に暗殺されたという故事を引かれ「孔子と申せし賢人は九思一言とて、こゝの〔九〕たび〔度〕おもひて一度〔ひとたび〕申す。」(御書1174頁)と諌められています。
これらのことで建治二年(西暦1276年)に四条金吾に対して越後への減俸、左遷という事態が起こったのです。
それに対して、日蓮大聖人は、四条金吾殿御返事で「只今の心はいかなる事も出来候はゞ、入道殿の御前にして命をすてんと存じ候。若しやの事候ならば、越後〔えちご〕よりはせ上〔のぼ〕らんは、はるかなる上、不定〔ふじょう〕なるべし。たとひ所領をめさるゝなりとも、今年はきみをはなれまいらせ候べからず。」(御書1043頁)と御指南されて、四条金吾もそのとおりに実行したのです。
さらに建治三年(西暦1277年)六月、桑ヶ谷で三位坊と竜象坊の法論において、四条金吾が武装して乱入したとの讒言によって、主人の江馬光時より四条金吾に法華経の信仰を捨てる起請文を書くように命じてきたのです。
これに対して日蓮大聖人は、頼基陳情で桑ヶ谷問答の詳しい経緯や江馬氏が尊敬している極楽寺良観、竜象房の実態や、さらには、世間においても主君の過ちを諭すことが真の忠義であることをもって、四条金吾を擁護されています。
さらに四条金吾にも「されば同じくはなげきたるけしき〔気色〕なくて、此の状にかきたるがごとく、すこしもへつら〔諂〕はず振る舞ひ仰せあるべし」(御書1162頁)と仰せられ、さらに「よる〔夜〕は用心きびしく、夜廻りの殿原かたらひて用ひ、常にはよりあはるべし。今度御内をだにもい〔出〕だされずば十に九は内のもの〔者〕ねら〔狙〕ひなむ。かま〔構〕へてきたな〔汚〕きし〔死〕にすべからず。」(御書1162頁)と細心の注意を促されています。
この四条金吾の主人である江馬光時の一族である名越家は、北条得宗家に次ぐ立ち場でありながら、鎌倉幕府の歴史の中で、常にその一族が謀叛人となって登場しており、初代の北条朝時は、父である北条義時からも愛されて、承久の乱には、一軍の総大将として活躍しているにもかかわらず、幕府の要職に就任した者は一人もいないのです。
そんな不運な立ち場を余儀なくされ、さらには、北条時輔の乱で自らの潔白を証明しなければならない立場になった江馬光時にとっても、周りの者から理不尽な嫌疑をかけられている四条金吾の存在は、心中常に穏やかではなかったのかも知れません。
その江馬光時が建治三年(西暦1277年)の九月頃、流行していた疫病にたおれ、療養の甲斐もなく長く病床にあって、ついに医術に優れていた四条金吾に久々の出仕が命じられたのです。
当然、諫言をした家臣たちは、おもしろかろうはずがなく、大聖人は、久々の出仕の報に接すると同時に「此につけても、殿の御身もあぶ〔危〕なく思ひまいらせ候ぞ。」(御書1171頁)と四条金吾の気性が禍いを起こすことや、弟たちを大切にし、いざと云う時に備える事、また、主君の邸への出入りに際しては、言動から姿形までも注意するようにと細やかな注意を与えられています。
このような日蓮大聖人の御指南に従い、細心の注意を心がけながら、主君、江馬光時の治療を続け、病状もようやく快方に向かっていったのです。
その結果、弘安元年十月の四条金吾殿御返事には、「御所領上〔かみ〕より給〔た〕ばらせ給ひて候なる事、まことゝも覚へず候。夢かとあまりに不思議に覚へ候。」(御書1286頁)とあり、以前より三倍もの所領を得ることとなったのです。
さらには、医術に優れていた四条金吾は、身延に入山されてからの日蓮大聖人にも、たびたび薬を献上し、弘安元年の中務左衛門尉殿御返事には、「将又〔はたまた〕日蓮が下痢〔くだりばら〕去年十二月卅日事起こり、今年六月三日四日、日々に度をまし月々に倍増す。定業〔じょうごう〕かと存ずる処に貴辺の良薬〔ろうやく〕を服してより已来、日々月々に減じて今百分の一となれり。」(御書1240頁)とあり、弘安二年九月十五日の四条金吾殿御返事にも「日蓮が死生をばまか〔任〕せまいらせて候。全く他のくすし〔薬師〕をば用ゐまじく候なり。」(御書1392頁)と仰せになっており、大聖人の四条金吾の医術に対して非常に信頼されていることがわかり、この手紙を頂いて十月には、直接、身延に大聖人を訪れ、お見舞い申し上げています。
この弘安二年といえば、駿河地方で熱原法難が起こったことを契機として、聖人御難事に「余は二十七年なり。」(御書1396頁)とあるように、日蓮大聖人が立宗以来、二十七年にして本門戒壇の大御本尊建立という出世の本懐をとげられたことが示され、その最後に「さぶらうざへもん〔三郎左衛門〕殿のもとにとゞ〔留〕めらるべし。」(御書1398頁)とあり、やはり、熱原法難においても四条金吾への信頼が絶大であったことが偲ばれます。
このように四条金吾の投薬などによって、一時、健康を取り戻された大聖人ではありましたが、弘安五年(西暦1282年)九月ごろになると大聖人の御病気は進み、療養のために常陸の湯へと湯治に向かわれます。
それに四条金吾は、お供しましたが、ついに十月十三日、辰の刻(午前八時頃)、武蔵国池上、現在の東京都大田区池上で大聖人は、御入滅されたのです。
その御葬送において、池上宗仲とともに幡を捧げたのは、この四条金吾でした。
晩年は、入道して四条家の領地といわれる甲州内船〔うちふな〕現在の山梨県南巨摩郡南部町内船に隠居して正安二年(西暦1300年)七十歳前後で他界したと考えらます。


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