日蓮正宗法華講開信寺支部より

御書研鑚の集い 御書研鑽資料


四条金吾御消息文 18 四条金吾殿御返事(告誡書)

第一章 仏法と王法の相違

【四条金吾殿御返事 建治三年秋】
四条金吾殿御返事 建治三年秋 五六歳


【御文〔おんふみ〕あらあらうけ給はりて、】
あなたの御手紙の内容の概略を承〔うけたまわ〕り、

【長き夜のあけ、とをき道をかへりたるがごとし。】
長い夜が明け、遠い道のりを歩いて、家に帰り着いたように安心致しました。

【夫〔それ〕仏法と申すは勝負をさきとし、王法と申すは賞罰を本とせり。】
そもそも仏法は、勝負を先とし、王法は、賞罰を本としているのです。

【故に仏をば世雄〔せおう〕と号し、王をば自在となづけたり。】
それゆえに仏を世雄と号し、王を自在と名づけるのです。

【中にも天竺をば月氏という、我が国をば日本と申す。】
この世界の国々の中でも、インドを月氏と言い、我が国を日本と言うのです。

【一閻浮提八万の国の中に大なる国は天竺、小なる国は日本なり。】
世界にある八万の国の中でも、大国は、インドであり、小国は、日本です。

【名のめでたきは印度第二、】
しかし、国の名前の中では、インドは、第二であり、

【扶桑〔ふそう〕第一なり。仏法は月の国より始めて日の国にとゞまるべし。】
日本は、第一であり、仏法は、月の国から始まって日の国に留まるのです。

【月は西より出でて東に向かひ、日は東より西へ行く事】
月は、西から出て東に向かい、日は、東から出て西へ行くことが

【天然のことはり、】
自然の道理であるように、この事は、真理であり、

【磁石と鉄と、雷と象華とのごとし。】
あたかも磁石が鉄を吸い、象牙草が雷の音で実を付けるようなものなのです。

【誰か此のことはりをやぶらん。】
誰がこの道理を破る事が出来るでしょうか。


第二章 日本への仏法渡来

【此の国に仏法わたりし由来をたづぬれば、】
この日本に仏法が渡って来た経緯を尋ねてみれば、

【天神七代・地神五代すぎて人王の代となりて、】
天神七代、地神五代、すなわち神代の時代を過ぎて、人王の時代となって、

【第一神武天皇乃至第三十代欽明天皇と申せし王をはしき。】
第一代、神武天皇より、第三十代目に欽明天皇と言う天皇が現われました。

【位につかせ給ひて三十二年治め給ひしに、】
この天皇は、位につかれて32年間、世を治められたのですが、

【第十三年壬申〔みずのえさる〕十月十三日辛酉〔かのととり〕に、】
その13年目の10月13日に、

【此の国より西に百済〔くだら〕国と申す国あり。】
日本の西方に百済と言う国があり、

【日本国の大王の御知行の国なり。】
その当時は、日本の天皇が統治されていた国ですが、

【其の国の大王聖明〔せいめい〕王と申せし国王あり。】
その国の大王で聖明〔せいめい〕王と言う国王が居ました。

【年貢〔みつぎ〕を日本国にまいらせしついでに、】
この王が年貢を日本に治めた折に、

【金銅〔こんどう〕の釈迦仏並びに一切経・法師・尼等をわたしたりしかば、】
金銅〔こんどう〕で作られた釈迦牟尼仏と一切経、僧侶、尼僧を送られたので、

【天皇大いに喜びて群臣に仰せて云はく、】
天皇は、大いに喜んで家臣に向かって、

【西蕃〔せいばん〕の仏をあがめ奉るべしやいなや。】
「西域の仏を崇め奉るべきかどうか」と問われたのです。

【蘇我〔そが〕の大臣〔おおおみ〕】
すると天皇の政治を補佐する大臣〔おおおみ〕の蘇我氏の中の

【いなめ〔稲目〕の宿禰〔すくね〕と申せし人の云はく、】
蘇我稲目〔そがのいなめ〕と言う人が、

【西蕃の諸国みな此を礼〔らい〕す、】
西域の諸国は、みな、これを礼拝しています。

【とよあき〔豊秋〕やまと〔日本〕あに独〔ひと〕り】
豊秋日本〔とよあきやまと〕だけが、

【背〔そむ〕かんやと申す。】
どうして背くことが、出来ましょうかと申し上げたのです。

【物部〔もののべ〕の大むらじ〔連〕】
すると天皇の軍事を補佐する大連〔おおむらじ〕の

【をこし〔尾輿〕・】
物部氏の中の物部尾輿〔もののべのおこし〕と、

【中臣のかまこ〔鎌子〕等奏して曰く】
中臣鎌子〔なかとみのかまこ〕などは、

【「我が国家天下に君たる人は、つねに天地・しゃそく〔社稷〕・】
「我が国家、天下の君主である人は、つねに天地、祭壇、

【百八十神〔ももやそのかみ〕を春夏秋冬にさいはい〔祭拝〕するを事とす。】
百八十神を春夏秋冬に祭り、拝むのを習いとしております。

【しかるを今更あらためて西蕃の神を拝せば、】
それをいまさら、改めて西域の神を拝むのであれば、

【をそらくは我が国の神いかりをなさん」云云。】
おそらく、我が国の神は、怒りをなすでしょう」と上奏したのです。

【爾〔そ〕の時に天皇わかちがたくして勅宣〔ちょくせん〕す。】
その時に天皇は、考えあぐねて、勅宣で、

【此の事を只〔ただ〕心みに蘇我の大臣につけて、一人にあがめさすべし。】
この仏を試みに、大臣である蘇我稲目〔そがのいなめ〕一人に崇めさせる事にして、

【他人用ひる事なかれ。】
他の者は、用いてはならないと命令を下しました。

【蘇我の大臣うけ取りて大いに悦び給ひて、此の釈迦仏を】
蘇我稲目〔そがのいなめ〕は、これを受け取って大いに喜び、この釈迦牟尼仏を、

【我が居住のをはだ〔小墾田〕と申すところに入れまいらせて安置せり。】
自分の居住している小墾田〔おはだ〕と言う場所に迎え入れ安置しました。

【物部大連〔もののべのおおむらじ〕不思議なりとて】
物部尾輿〔もののべのおこし〕は、こんな馬鹿なことがあるかと言って、

【いきどをりし程に、日本国に大疫病をこりて死せる者大半に及ぶ。】
怒っていたところ、日本に大疫病が広がり、死ぬ者が大半に及んだのです。

【すでに国民尽きぬべかりしかば、】
やがて疫病で国民が滅亡しそうになったので、

【物部大連隙〔ひま〕を得て】
物部尾輿〔もののべのおこし〕は、この時とばかり、

【此の仏を失ふべきよし申せしかば勅宣なる。】
この仏像を廃棄すべきであると上奏したところ、勅宣によって

【「早く他国の仏法を棄〔す〕つべし」云云。】
「すみやかに他国の仏法を捨てよ」との命令が下されたのです。

【物部大連御使ひとして】
物部尾輿〔もののべのおこし〕は、天皇の命を受けた使者として、

【仏をば取りて炭をもてをこし、つち〔槌〕をもて打ちくだき、】
仏像を取り上げて、炭を熾〔おこ〕して焼き、槌〔つち〕で打ち砕き、

【仏殿〔ほうどの〕をば火をかけてやきはらひ、僧尼をばむち〔笞〕をくわう。】
仏殿には、火をつけて焼き払い、僧尼には、鞭を加えたのです。

【其の時天に雲なくして大風ふき、雨ふり、】
その時、天には、雲もないのに大風が吹き、雨が降り、

【内裏〔だいり〕天火にやけあがて、】
内裏は、落雷によって炎上し、

【大王並びに物部大連・蘇我臣〔そがのおみ〕三人共に】
天皇、物部尾輿〔もののべのおこし〕、蘇我稲目〔そがのいなめ〕の三人とも、

【疫病あり。】
疫病にかかったのです。

【きるがごとく、やくがごとし、】
その苦しみは、身を切られるように辛く、身を焼かれるようでした。

【大連は終〔つい〕に寿〔いのち〕絶えぬ。】
物部尾輿〔もののべのおこし〕は、ついに絶命してしまい、

【蘇我と王とはからくして蘇生す。】
蘇我稲目〔そがのいなめ〕と天皇とは、危ういところで、なんとか治ったのでした。

【而れども仏法を用ゆることなくして十九年すぎぬ。】
しかし、仏法を用いることなく、19年が過ぎたのです。


第三章 崇仏と排仏の争い

【第三十一代の敏達〔びだつ〕天皇は欽明第二の太子、治〔みよ〕十四年なり。】
第31代の敏達〔びだつ〕天皇は、欽明天皇の第二子で、十四年間、国を治め、

【左右の両臣は、一〔ひとり〕は物部大連が子にて、】
その左右の大臣は、一人は、物部尾輿〔もののべのおこし〕の子で

【弓削守屋〔ゆげのもりや〕、】
弓削守屋〔ゆげのもりや〕と言い、

【父のあとをついで大連に任ず。】
父の跡をついで、天皇の軍事を補佐する大連〔おおむらじ〕に任じられ、

【蘇我の宿禰〔すくね〕の子は】
もう一人は、蘇我稲目〔そがのいなめ〕の子で、

【蘇我馬子〔うまこ〕と云云。】
蘇我馬子〔そがのうまこ〕と言いました。

【此の王の御代に聖徳太子生まれ給へり。】
この天皇の時代に聖徳太子が生まれたのです。

【用明〔ようめい〕の御子】
聖徳太子は、のちの用明〔ようめい〕天皇の御子であり、

【敏達のをい〔甥〕なり。御年二歳の二月、東に向かって無名の指を開いて】
敏達〔びだつ〕天皇の甥でした。御年二歳の二月に東に向かって無名の指を開いて、

【南無仏と唱へ給へば御舎利掌〔みて〕にあり。】
南無仏と唱えられると、釈迦牟尼仏の舎利が掌〔てのひら〕にあったのです。

【是日本国の釈迦念仏の始めなり。太子八歳なりしに八歳の太子云はく】
これが日本の釈迦念仏の最初なのです。聖徳太子が八歳になられたときに、

【「西国の聖人釈迦牟尼仏の遺像、末世に之を尊〔たっと〕めば】
「西国の聖人である釈迦牟尼仏の遺像を末世に尊べば、

【則ち禍〔わざわ〕ひを銷〔け〕し福を蒙〔こうむ〕る。之を蔑〔あなず〕れば】
すなわち禍〔わざわい〕を消し、福を蒙〔こうむ〕る。これを蔑〔あなず〕れば、

【則ち災ひを招き寿を縮む」等云云。】
すなわち災を招き、寿命を縮めるであろう」と述べられたのです。

【大連物部弓削宿禰守屋等いかりて云はく】
大連〔おおむらじ〕物部氏の物部弓削守屋〔もののべのゆげのもりや〕などは怒って

【「蘇我は勅宣を背きて他国の神を礼す」等云云。】
「蘇我は、勅宣に背いて、他国の神を礼拝している」と讒訴〔ざんそ〕したのです。

【又疫病未だ息〔や〕まず、人民すでにたえぬべし。】
また疫病は、未だ止まず、すでに人民は、死に絶えそうな様相でした。

【弓削守屋又此を間奏す云云。】
物部弓削守屋〔もののべのゆげのもりや〕は、またこれを讒訴しました。

【勅宣に云はく「蘇我馬子仏法を興行す、】
そこで「蘇我馬子〔そがのうまこ〕は、仏法を興行礼拝している。

【宜しく仏法を却〔しりぞ〕くべし」等云云。】
この仏法を退けるべきである」との勅宣が下ったのです。

【此に守屋と】
そこで物部弓削守屋〔もののべのゆげのもりや〕と

【中臣臣勝海〔なかとみのおみかつみの〕大連等の両臣は】
中臣臣勝海〔なかとみのおみかつみの〕の両臣は、

【寺に向かって堂塔を切りたう〔倒〕し、仏像をやきやぶり、寺には火をはなち、】
寺に向かい、堂塔を切り倒し、仏像を焼き壊し、寺には火を放ち、

【僧尼の袈裟をはぎ、笞〔むち〕をもってせ〔責〕む。】
僧尼の袈裟をはいで、鞭〔むち〕をもって責めたのです。

【又天皇並びに守屋・】
この結果、また天皇ならびに物部弓削守屋〔もののべのゆげのもりや〕、

【馬子等疫病す。】
蘇我馬子〔そがのうまこ〕らは、疫病にかかったのです。

【其の言に云はく「焼くがごとし、きるがごとし」と。】
その時の言葉は「身を焼かれ、身を切られるようである」でした。

【又瘡〔かさ〕を〔起〕こる、はうそう〔疱瘡〕といふ。】
また、皮膚病が流行ったのです。これを疱瘡と言います。

【馬子歎ひて云はく】
蘇我馬子〔そがのうまこ〕は、嘆いて

【「尚三宝を仰がん」と。】
「やはり三宝を信奉しましょう」と奏上したのです。

【勅宣に云はく「汝独り行なへ、但し余人を断〔た〕てよ」等云云。】
そして勅宣が「汝ひとりで敬え、ただし他人が敬うことは禁ずる」と下ったのです。

【馬子欣悦〔ごんえつ〕し精舎〔しょうじゃ〕を造りて三宝を崇〔あが〕めぬ。】
蘇我馬子〔そがのうまこ〕は、大いに悦んで、精舎を造って三宝を敬ったのです。


第四章 崇仏派の勝利

【天皇は終に八月十五日崩御云云。】
敏達〔びだつ〕天皇は、ついに八月十五日に崩御され、

【此の年は太子は十四なり。】
この年、聖徳太子は、十四歳でした。

【第三十二代用明天皇】
第32代、用明天皇は、治世が二年間です。

【(治二年欽明の太子聖徳太子の父なり)。】
欽明天皇の太子であり、聖徳太子の父です。

【治〔みよ〕二年丁未〔ひのとひつじ〕四月に天皇疫病あり。】
治世二年四月に天皇は、疫病に罹〔かか〕りました。

【皇〔みかど〕勅して云はく「三宝に帰せんと欲す」云云。】
天皇は、ついに「三宝に帰依したい」と勅宣されたのです。

【蘇我の大臣〔おおおみ〕詔〔みことのり〕に随ふべしとて】
蘇我の大臣〔おおおみ〕は、詔〔みことのり〕に随うべきであるとして、

【遂に法師を引いて内裏〔だいり〕に入る。】
ついに法師を内裏に入れたのです。

【豊国の法師是なり。】
これが豊国法師〔とよくにのほうし〕です。

【物部守屋大連等大いに瞋〔いか〕り、】
物部弓削守屋〔もののべのゆげのもりや〕の大連〔おおむらじ〕は、大いに怒って、

【横に睨〔にら〕んで云はく「天皇を厭魅〔えんみ〕す」と。】
反発をまし「天皇を呪う」とまで言ったのです。

【終に皇隠れさせ給ふ。】
ついに天皇は、亡くなられて、

【五月に物部守屋が一族、】
五月に物部弓削守屋〔もののべのゆげのもりや〕の一族は、

【渋河〔しぶかわ〕の家にひきこもり多勢をあつめぬ。】
渋河の家に引き籠って、大勢の人を集めました。

【太子と馬子と押し寄せてたゝかう。】
聖徳太子と蘇我馬子〔そがのうまこ〕が、そこに押し寄せて戦いとなりました。

【五月・六月・七月の間に四箇度合戦す。三度は太子まけ給ふ。】
五月から七月の間に四回合戦が行なわれ、そのうち三度は、太子側が負けました。

【第四度め〔目〕に太子願を立てゝ云はく】
第四回目の合戦のとき、聖徳太子は

【「釈迦如来の御舍利の塔を立て四天王寺を建立せん」と。】
「釈迦如来の御舎利の塔を建てて、四天王寺を建立する」と言う願を立てました。

【馬子願って云はく「百済より渡す所の釈迦仏を】
蘇我馬子〔そがのうまこ〕も「百済より渡って来たところの釈迦仏を、

【寺を立てゝ崇重すべし」云云。】
寺を建てて安置し崇重する」と願ったのです。

【弓削〔ゆげ〕なの〔名乗〕って云はく】
いよいよ合戦に入って、物部弓削守屋〔もののべのゆげのもりや〕は

【「此は我が放つ矢にはあらず。】
「これは、私が放つ矢ではない。

【我が先祖崇重の府都〔ふと〕の大明神の放ち給ふ矢なり」と。】
私の先祖から崇重している府都の大明神の放たれる矢である」と言うと、

【此の矢はるかに飛んで太子の鎧〔よろい〕に中〔あた〕る。】
その矢が遙かに飛んで聖徳太子の鎧にあたったのです。

【太子なのる。此は我が放つ矢にはあらず、四天王の放ち給ふ矢なりとて、】
聖徳太子も、これは、私が放つ矢ではない。四天王が放ちたもう矢であると告げて、

【迹見赤檮〔とみのいちひ〕と申す舎人〔とねり〕にいさせ給へば、】
迹見赤檮〔とみのいちひ〕と言う家来に射させると、

【矢はるかに飛んで守屋が胸に中りぬ。】
矢は、遙かに飛んで、物部弓削守屋〔もののべのゆげのもりや〕の胸にあたったのです。

【はた〔秦〕のかは〔河〕かつ〔勝〕をちあひて】
そこで秦河勝〔はたのかわかつ〕が駆け付けて、

【頸をとる。】
物部弓削守屋〔もののべのゆげのもりや〕の首を取ったのです。

【此の合戦は用明崩御・】
この合戦は、用明天皇が崩御されたあと、

【崇峻〔すしゅん〕未だ位に即〔つ〕き給はざる其の中間なり。】
崇峻〔すしゅん〕天皇が未だ位についていない、その間のことです。

【第三十三崇峻天皇位につき給ふ。】
第三十三代、崇峻〔すしゅん〕天皇が位につかれると、

【太子は四天王寺を建立す。】
聖徳太子は、四天王寺を建立しました。

【此釈迦如来の御舍利なり。】
これは、釈迦如来の御舎利を安置したのです。

【馬子は元興寺〔がんごうじ〕と申す寺を建立して、】
蘇我馬子〔そがのうまこ〕は、元興寺と言う寺を建立して、

【百済国よりわたりて候ひし教主釈尊を崇重す。】
百済国から渡ってきた教主釈尊を尊重したのです。

【今の代に世間第一の不思議は善光寺の】
ところが、今の代で世間に第一の不思議なことは、善光寺の本尊が

【阿弥陀如来という誑惑〔おうわく〕これなり。】
阿弥陀如来であると言うことであり、これは世間を誑〔たぶら〕かすものなのです。

【又釈迦仏にあだをなせしゆへに、】
また釈迦牟尼仏に仇〔あだ〕をなした故に、

【三代の天皇並びに物部の一族むなしくなりしなり。】
三代の天皇、並びに物部氏一族は、滅んだのです。

【又太子、教主釈尊の像一体をつくらせ給ひて元興寺に居〔こ〕せしむ。】
また太子は、教主釈尊の像を一体造られて、元興寺に安置されました。

【今の橘寺〔たちばなでら〕の御本尊これなり。】
今の橘寺の本尊がこれなのです。

【此こそ日本国に釈迦仏つくりしはじめなれ。】
これこそ、日本で釈迦牟尼仏を造った最初なのです。


第五章 漢土への仏法渡来

【漢土には後漢の第二の明帝〔めいてい〕、】
漢土では、後漢の第二の明帝〔めいてい〕が、

【永平七年に金神〔こんじん〕の夢を見、】
永平七年に金神の夢を見て、

【博士蔡愔〔はかせさいいん〕・王遵〔おうじゅん〕等の】
博士蔡愔〔はかせさいいん〕、王遵〔おうじゅん〕などの

【十八人を月氏につかはして、仏法を尋ねさせ給ひしかば、】
十八人をインドに派遣して、仏法を求めさせたところ、

【中天竺の聖人摩騰迦〔まとうか〕・】
中天竺の聖人摩騰迦〔まとうか〕、

【竺法蘭〔じくほうらん〕と申せし二人の聖人を、】
竺法蘭〔じくほうらん〕と言う二人の聖人を、

【同じき永平十年丁卯〔ひのとう〕の歳迎へ取りて崇重ありしかば、】
同じく永平十年の歳に迎えることが出来て崇重したのです。

【漢土にて本より皇の御いのり〔祈〕せし儒家・道家の人々数千人、】
すると漢土で昔から皇室の祭祀をしていた儒家、道家の人々、数千人が、

【此の事をそねみてうった〔訴〕へしかば、】
この事を妬〔ねた〕んで訴えたので、

【同じき永平十四年正月十五日に召し合はせられしかば、】
永平十四年正月十五日に、双方を召し合わせて、優劣を決する事となりました。

【漢土の道士悦びをなして唐土の神百霊を本尊としてありき。】
漢土の道士は喜んで、唐土の神、百霊を本尊とし、

【二人の聖人は】
一方、摩騰迦〔まとうか〕、竺法蘭〔じくほうらん〕の二人の聖人は、

【仏の御舍利と釈迦仏の画像と五部の経を本尊と恃怙〔たのみ〕給ふ。】
仏の舎利と釈迦牟尼仏の画像と五部の経を本尊となし、その力を頼りました。

【道士は本〔もと〕より王の前にして習ひたりし】
漢土の道士は、昔から王の前で行なってきた習わしどおり、

【仙経・三墳〔さんぷん〕・五典・二聖三王の書を】
仙経、三墳、五典、二聖、三王の書を、

【薪〔たきぎ〕につみこめてやきしかば、】
薪〔たきぎ〕と一緒に積んで焼いたところ、

【古はやけざりしが、はい〔灰〕となりぬ。】
仏法渡来以前は、焼けなかった書が、ことごとく灰となってしまったのです。

【先には水にうかびしが水に沈みぬ。】
また以前には、水に浮かんだものが、今は、水に沈んでしまったのです。

【鬼神を呼びしも来たらず。あまりのはづかしさに】
鬼神を呼んでも、それも来ず、あまりの恥ずかしさに、

【褚善信〔ちょぜんしん〕・費叔才〔ひしゅくさい〕なんど申せし】
褚善信〔ちょぜんしん〕、費叔才〔ひしゅくさい〕などと言う

【道士等はおもひ死〔じに〕しゝぬ。二人の聖人の説法ありしかば、】
道士は、思い悩んで死んでしまったのです。一方、二人の聖人が説法をすると、

【舍利は天に登りて光を放ちて日輪みゆる事なし。】
仏舎利は、天に登って光を放って、日の光すら見えない有様であったのです。

【画像の釈迦仏は眉間〔みけん〕より光を放ち給ふ。】
そして画像の釈迦仏は、眉間から光を放たれたのです。

【呂慧通〔りょけいつう〕等の六百余人の道士は帰伏して出家す。】
呂慧通〔りょけいつう〕などの六百余人の道士は、その場で仏法に帰伏して出家し、

【三十日が間に十寺立ちぬ。】
三十日の間に十箇寺が建立されました。

【されば釈迦仏は賞罰たゞしき仏なり。】
このように釈迦牟尼仏は、賞罰が正しい仏なのです。

【上〔かみ〕に挙ぐる三代の帝〔みかど〕並びに二人の臣下、】
前にあげた三代の天皇と二人の臣下は、

【釈迦如来の敵とならせ給ひて、】
釈迦如来の敵となったので、

【今生は空〔むな〕しく、後生は悪道に堕〔お〕ちぬ。】
今生には命を捨て、後生には悪道に堕ちたのです。


第六章 仏法は賞罰正しい

【今の代も又これにかはるべからず。】
現代であっても、これは、変るところがありません。

【漢土の道士信・費等、】
漢土の道士、褚善信〔ちょぜんしん〕、費叔才〔ひしゅくさい〕など、

【日本の守屋等は、】
また日本の物部弓削守屋〔もののべのゆげのもりや〕などは、

【漢土日本の大小の神祇を信用して、】
それぞれ漢土、日本の大小の神祇を信用して、

【教主釈尊の御敵となりしかば、神は仏に随ひ奉り、】
教主釈尊の御敵となったので、神は仏に随って、

【行者は皆ほろびぬ。】
その為に行者は、すべて、亡んだのです。

【今の代も此くの如し、上に挙ぐる所の百済国の仏は教主釈尊なり。】
今の時代も同様であり、前にあげた百済国伝来の仏は、教主釈尊なのです。

【名を阿弥陀仏と云ひて、】
しかるにその名を阿弥陀仏だと言って、

【日本国をたぼらかして釈尊を他仏にかへたり。】
日本国を誑〔たぶら〕かし、釈尊を他仏にすりかえたのです。

【神と仏と、】
かつて仏法渡来の時は、神と仏、

【仏と仏との差別こそあれども、】
今の鎌倉時代は、阿弥陀仏と釈迦牟尼仏と違いこそあっても、

【釈尊をすつる心はたゞ一なり。】
釈尊を捨てる心は、同じなのです。

【されば今の代の滅せん事又疑ひなかるべし。】
それゆえ、今の代が滅びることもまた疑いないのです。

【是は未だ申さゞる法門なり。秘すべし秘すべし。】
これは、今まで言った事がない大事な法門であり、深く秘していくべきです。

【又吾が一門の人々の中にも、】
また別しては、吾が一門の中の人であっても、

【信心もうすく日蓮が申す事を背き給はゞ蘇我が如くなるべし。】
信心が薄く、日蓮の申したことに背いたならば、蘇我一門のようになるのです。

【其の故は仏法日本に立ちし事は、】
その理由は、仏法が日本に受け入れられたのは、

【蘇我宿禰〔そがのすくね〕と】
官僚の蘇我稲目〔そがのいなめ〕と

【馬子との父子二人の故ぞかし。】
蘇我馬子〔そがのうまこ〕の父子二人がいたからなのです。

【釈迦如来の出世の時の】
仏法を守護したのですから、釈迦如来の出世の時の

【梵王・帝釈の如くにてこそあらましなれども、】
梵王、帝釈のような立場となるはずであったのですが、

【物部と】
蘇我氏は、物部尾輿〔もののべのおこし〕や、

【守屋とを失ひし故に、】
その子の物部弓削守屋〔もののべのゆげのもりや〕を滅ぼしてしまった為に、

【只一門になりて位もあがり、】
大きな勢力をもった朝臣は、ただ蘇我一門だけになり、位も上がり、

【国をも知行し、一門も繁昌せし故に、】
国をも知行し、一門も繁盛したため、

【高挙〔たかあがり〕をなして崇峻天皇を失ひたてまつり、】
おごりたかぶった心を起こして、ついには崇峻天皇を殺し、

【王子を多く殺し、結句は太子の御子二十三人を】
王子を多く殺し、結局は、聖徳太子の御子二十三人を、

【馬子がまご〔孫〕入鹿〔いるか〕の臣下失ひまいらせし故に、】
蘇我の馬子の孫にあたる入鹿の臣下が、殺してしまったのです。

【皇極天皇は中臣鎌子〔なかとみのかまこ〕が計〔はから〕ひとして、】
そこで皇極〔こうぎょく〕天皇は、中臣鎌子〔なかとみのかまこ〕の計いで、

【教主釈尊を造り奉りてあながちに申せしかば、】
教主釈尊を造って、逆臣の亡びることを強盛に祈って討伐したので、

【入鹿の臣〔おみ〕並びに父等の一族一時に滅びぬ。】
入鹿とその父などの一族は、一時に皆滅びてしまったのです。


第七章 仏法は道理が必ず勝つ

【此をもて御推察あるべし。】
この蘇我氏の興亡を以って推察してください。

【又我が此の一門の中にも申しとをらせ給はざらん人々は、】
また我が一門の中でも、信仰が薄く、信心を貫き通せない人々は、

【かへりて失〔とが〕あるべし。】
返って仏の罰を蒙るのです。

【日蓮をうらみさせ給ふな。】
その時になって、日蓮を恨むことがあってはなりません。

【少輔房〔しょうぼう〕・能登〔のと〕房等を御覧あるべし。】
少輔房、能登房など門下で退転した人々の姿を見なさい。

【かまへてかまへて、此の間はよ〔余〕の事なりとも】
心して、この間は、たとえ別の事であっても、

【御起請〔ごきしょう〕かゝせ給ふべからず。】
起請を書くような事があっては、なりません。

【火はをびたゞしき様なれども、暫〔しばら〕くあればしめ〔滅〕る。】
火の勢いがあっても、しばらくすれば消えます。

【水はのろき様なれども、左右無く失ひがたし。】
水は、少ないようでも、その流れは、簡単には途絶えません。

【御辺は腹あしき人なれば火の燃ゆるがごとし。】
あなたは、気が短いので、火が燃えるようなところがあります。

【一定人にすかされなん。】
必ずそれを利用されて、足をすくわれるようなことが起こるでしょう。

【又主のうらうら〔遅々〕と言和〔やわ〕らかにすか〔賺〕させ給ふならば、】
また、主君に気安く言葉柔らかに言いくるめられると、

【火に水をかけたる様に御わたりありぬと覚〔おぼ〕ゆ。】
火に水をかけたように、主君に説き伏せられてしまうだろうと思われます。

【きた〔鍛〕はぬかね〔金〕は、】
鍛えていない鉄は、

【さかんなる火に入るればと〔疾〕くと〔蕩〕け候。】
燃えさかる火の中に入れると、すぐに溶けてしまいます。

【氷をゆ〔湯〕に入るゝがごとし。】
氷を湯の中に入れるようなものなのです。

【剣なんどは大火に入るれども暫くはとけず。】
剣などは、大火に入れても、しばらくは溶けません。

【是きたへる故なり。】
これは、鍛えられているからなのです。

【まえ〔前〕にかう申すはきたうなるべし。】
あなたに事前に、このように言うのは、あなたを鍛える為なのです。

【仏法と申すは道理なり。】
仏法と言うのは、道理なのです。

【道理と申すは主に勝〔か〕つ物なり。】
道理とは、主君の持つ権力にも、必ず勝つものなのです。

【いかにいとを〔愛〕し、はな〔離〕れじと思ふめ〔妻〕なれども、】
いかに愛おしく、離れまいと思う妻であっても、

【死しぬればかひなし。いかに所領ををしゝとをぼすとも】
死んでしまえば、どうしようもありません。また、いかに所領を惜しいと思っても、

【死しては他人の物、】
死んでしまえば他人のものとなってしまうのです。

【すでにさか〔栄〕へて年久し、】
あなたは、主君より所領を頂き、すでに栄えて年久しく、

【すこしも惜〔お〕しむ事なかれ。又さきざき申すがごとく、】
少しも所領を惜しむ心があってはなりません。また以前にも申したように、

【さきざきよりも百千万億倍御用心あるべし。】
今は、身に危険がある時ですから、以前より百千万億倍、用心してください。


第八章 身の用心を勧める

【日蓮は少〔わか〕きより今生のいのりなし。】
日蓮は、若い時から、今生の栄えを祈ったことはありません。

【只仏にならんとをもふ計りなり。】
ただ仏になろうと願うだけです。

【されども殿の御事をばひまなく法華経・釈迦仏・日天に申すなり。】
しかしながら、あなたの事は、絶えず法華経、釈迦仏、日天子に祈っています。

【其の故は法華経の命を継〔つ〕ぐ人なればと思ふなり。】
それは、あなたが法華経の命を継ぐ人だと思うからなのです。

【穴賢〔あなかしこ〕穴賢。】
実に恐れ多く、もったいないことです。

【あらかるべからず。吾が家にあらずんば人に寄〔よ〕り合〔あ〕ふ事なかれ。】
決して争いごとをしてはならず、自分の家でなければ、集まってはなりません。

【又夜廻〔よまわ〕りの殿原はひとりもたのもしき事はなけれども、】
また夜廻りの人達も、一人として頼りがいがあるとは思えませんが、

【法華経の故に屋敷を取られたる人々なり。常はむつ〔眤〕ばせ給ふべし。】
法華経の為に屋敷を取られた人々であるから、平常は、親しくしていきなさい。

【又夜の用心の為と申し、かたがた殿の守りとなるべし。】
夜の用心の為にもなり、また殿の護衛にもなるでしょう。

【吾が方の人々をば少々の事をばみずきかずあるべし。】
自分の味方になる人々には、少々の事があっても知らないふりをしていきなさい。

【さて又法門なんどを聞かばやと仰せ候はんに、】
また、主君より法門などを聞きたいとの仰せがあっても、

【悦んで見〔まみ〕え給ふべからず。】
軽率に悦んで、出ていくようなことがあってはなりません。

【いかんが候はんずらん。御弟子共に申してこそ見候はめと、】
さあ、どうでありましょうか。日蓮大聖人の御弟子に聞いてみましょうと、

【やはやは〔和々〕とあるべし。】
物柔らかに答えていきなさい。

【いかにもうれしさにいろに顕はれなんと覚え、】
いかにも、嬉しそうな様子を顔に顕し、

【聞かんと思ふ心だにも付かせ給ふならば、】
法門を聞こうとの主君の心に乗ぜられたならば、

【火をつけてもすがごとく、天より雨の下〔ふ〕るがごとく、】
火をつけて燃すように、天から雨が降りるように、

【万事をすて〔捨〕られんずるなり。】
いままでの努力の全てを、無にするでしょう。

【又今度いかなる便りも出来せば、】
また今度、なにかの問題が起きたならば、

【したゝめ候ひし陳状を挙〔あ〕げらるべし。】
以前に認めて差し上げた陳状を、主君に奏上してください。

【大事の文〔ふみ〕なれば、ひとさは〔一騒〕ぎはかならずあるべし。】
大事なことを書いた文であるから、ひと騒ぎは、必ず起こるでしょう。

【穴賢穴賢。】
恐れ多く存じます。

【日蓮花押】
日蓮花押

【四条金吾殿】
四条金吾殿


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