日蓮正宗法華講開信寺支部より

御書研鑚の集い 御書研鑽資料


観心本尊抄 1 背景と大意


観心本尊抄(御書644頁)

この観心本尊抄は、本抄の最後に「文永十年太歳癸酉卯月廿五日、日蓮註之」とあるように、文永十年(西暦1273年)卯月(四月)二十五日に、日蓮大聖人が佐渡流罪の時に聖寿52歳で佐渡の一谷〔いちのさわ〕において御述作されたものです。
そして翌26日に「観心本尊抄送状」を添えて富木常忍〔ときじょうにん〕に送られています。
富木常忍は、正しくは、富木五郎左衛門尉胤継〔ときごろうさえもんのじょうたねつぐ〕と言い、建長6年頃〔ごろ〕、日蓮大聖人に帰依したと思われます。
当時の下総国(千葉県)の守護であった千葉頼胤〔ちばよりたね〕に使えていた有力武士の一人で、かなりの学識があり、若宮(市川市若宮)に住んでいました。
松葉谷の法難の折には大聖人を自分の屋敷にかくまい、また、この佐渡流罪の時にも、同じく下総国の太田乗明、曽谷教信とともに大聖人の大檀那として活躍されました。
また、弘安二年の熱原法難の際には、富士から逃れてきた日秀や日弁を保護しています。
この観心本尊抄の他にも、法華取要抄、四信五品抄、寺泊御書、佐渡御書、始聞仏乗義、常忍抄、観心本尊得意抄などの数々の御書を頂いています。
これについて、総本山第59世、日享上人は、「付近の大田・曽谷等の武人と連盟し、鎌倉の四条氏と結合して外護にあたり、安国論奉献前後の法難を凌いで、少しも退くことなく勇猛精進を励んできた。これをもって信徒の首領として老弟子と比肩するに至り、本門第一の重書たる観心本尊抄を始め、数十の義抄を賜っており、また関東の重鎮として聖教多く自然に集まりて今に現存している。」と述べられています。
その後、日蓮大聖人、御入滅後に日常と改名し、屋敷を法華寺と改称してその開山となりました。それが現在の中山法華経寺(千葉県市川市中山二丁目)です。その当時から日興上人とは疎遠となって謗法が強まり、現在では、その門流は身延派日蓮宗となっています。
その為、御真筆は、観心本尊抄送状とともに中山法華経寺に国宝として現存しています。
御真筆は、漢文体で紙数17枚の厚手の楮紙〔ちょし〕に表裏にわたって書かれており、またその中の13枚目からは、寸法の異なる斐紙〔ひし〕に書かれているなど、大変な窮乏の中で書かれている事がしのばれます。
富士一跡門徒存知の事には、「取要抄」「四信五品抄」と合わせて「已上の三巻は因幡国富城荘の本主・今は常住下総国五郎入道日常に賜わる、正本は彼の在所に在り」とあり、大聖人の御真筆が、最初から、この中山法華経寺にあったことがわかります。
それにしても、今にして思えば、大聖人が富木常忍に数多くの御書を与えられて現在までそれらがまったく失われずに伝わって来たと言う事は、実に不思議な事であると思われます。
御仏智は、我々には、到底、わかるものではありませんが、大聖人が、未来の私達の為に、もっとも安全な場所に、これらの重要な御書を残されたのでしょう。
しかし、その富木常忍ですら、日蓮大聖人が末法の御本仏である事がわからず、釈迦像を作ったり、上行菩薩の出世の時期を尋ねたりしているのです。それは、この富木常忍が本抄を理解できる人であるから、これを託されたのではなく、本抄を後世に大切に残してくれると信頼されたからではないでしょうか。
この富木常忍によって、この観心本尊抄などの多くの重要な御書を後世に残された事は、たとえ、それが教学によってではなく家宝として大事にしてしまっておこうとしたからだとしても、現在、御書を学ぶ私達にとっては、ほんとうに有り得ないような幸運な事なのです。
そして、日蓮大聖人の正法正義は、日蓮正宗大石寺、第二祖日興上人によって受け継がれ、後世に伝えられました。その日興上人は、大聖人の御入滅後、これらの多くの御書を集められ筆写されました。現存する写本は、立正安国論、法華取要抄、本尊問答抄、開目抄、観心本尊抄、始聞仏乗義などがあります。これらの事実は、大聖人が御入滅後に日興上人が大聖人の御書を大事にされた証拠であり、それは、まさに令法久住の為であり、末法万年の民衆を救済の為であったのです。
以上の事からわかるように大聖人が流罪の身の上でありながら、万難を排して、開目抄及び、この観心本尊抄を顕されたのは、すべて滅後の人々の為であり、我々は、それを心して拝読していかなければなりません。
この観心本尊抄の題名について、総本山第59世日亨上人は「如来滅後、五の五百歳に始〔はじ〕む観心の本尊抄」と読むのが正しいとされています。つまり、この観心の本尊とは、釈迦如来が諸経で説いた本尊ではなく、末法の御本仏である日蓮大聖人が書き顕すところの本尊であるという意味です。
本抄では、まず一念三千という言葉の意味と出処を示し、法華経の迹門にも本門にも一念三千の名はあるが、その実体がなく、末法に弘通される観心の本尊こそ文底下種、事行の一念三千、つまり三大秘法の本門戒壇の大御本尊であることが示されています。
第二十六世日寛上人は、観心本尊抄文段に「夫〔そ〕れ当抄に明かす所の観心の本尊とは、一代諸経の中には但〔ただ〕法華経、法華経二十八品の中には但本門寿量品、本門寿量品の中には但文底深秘の大法〔だいほう〕にして本地唯密〔ゆいみつ〕の正法なり。」とあり、この御書に明かすところの観心の本尊とは、釈尊の一代諸経の中では、ただ法華経であり、法華経二十八品の中では、ただ本門寿量品、本門寿量品の中では、ただ文底深秘の大法であり、その寿量品の文の底に深く秘されている大法が観心の本尊であるとされています。さらに「此の本尊に人あり法あり。人は謂〔いわ〕く、久遠元初の境智冥合、自受用報身。法は謂く、久遠名字の本地難思の境智の妙法なり。法に即してこれ人、人に即してこれ法、人法の名は殊なれども、その体は恒に一〔いつ〕なり。その体は一なりと雖〔いえど〕も、而も人法宛然〔おんねん〕なり。応知るべし、当抄は人即法の本尊の御抄なるのみ。」とあり、この本尊には、人本尊と法本尊の二つがあり、人本尊は、久遠元初の境智冥合、自受用報身であり、法本尊は、久遠名字の本地難思境地の妙法であると御教示されています。そして法に即して人、人に即してこれ法、人法と名は違っていても、その体は、一つであり、しかし、その体は一つと言えども、人法がある。この御書は、人即法の本尊の御書であるとも御教示されています。
それ故に先に四条金吾に与えられた開目抄を人本尊開顕の書と云うのに対して、この富木常忍に与えらえた観心本尊抄を法本尊開顕の書と言います。
また、「これ則〔すなわ〕ち諸仏諸経の能生〔のうしょう〕の根源にして、諸仏諸経の帰趣〔きしゅ〕せらるる処なり。故に十方三世の恒沙の諸仏の功徳、十方三世の微塵の経々の功徳、皆咸〔ことごと〕くこの文底下種の本尊に帰せざるなし。譬えば百千枝葉同じく一根に趣〔おもむ〕くが如し。」とあり、これこそ、三世の諸仏が生み出される根源であると結論づけられています。
さらに、「故にこの本尊の功徳、無量無辺にして広大深遠の妙用〔みょうゆう〕あり。故に暫〔しばら〕くもこの本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則ち祈りとして叶わざるなく、罪として滅せざるなく、福として来〔きた〕らざるなく、理として顕れざるなきなり。妙楽の所謂〔いわゆる〕、正境〔しょうきょう〕に縁すれば功徳猶〔なお〕多しとはこれなり。これ則ち蓮祖出世の本懐、本門三大秘法の随一、末法下種の正体、行人所修〔ぎょうにんしょしゅ〕の明鏡〔みょうきょう〕なり。」とあり、続けて、日寛上人は、この本尊の功徳は、無量無辺であって広大深遠の不思議な働きがある。ゆえに暫くでもこの本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱えるならば、祈りとして叶わざるはなく、罪として滅せざるはなく、福として来らざるはなく、理として顕われざるはなしと述べられているのです。
この本尊こそ日蓮正宗大石寺、奉安堂に安置されている本門戒壇の大御本尊なのです。

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