御書研鑚の集い 御書研鑽資料
観心本尊抄 17 受持即観心を明かす
第16章 受持即観心を明かす
【問うて曰く、上〔かみ〕の大難】
それでは、質問しますが、先ほどの大きな難題について、
【未〔いま〕だ其の会通〔えつう〕を聞かず如何。】
未だにその答えがさっぱり理解出来なのですが、これは、どういう事なのでしょう。
【答へて曰く、無量義経に云はく】
それに答えると、無量義経には
【「未だ六波羅蜜〔ろくはらみつ〕を修行することを得ずと雖も】
「未だ、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧の修行を完成しなくても、
【六波羅蜜】
この法華経を受持する功徳によって、これらの六つの波羅蜜は
【自然〔じねん〕に在前〔ざいげん〕す」等云云。】
自然に具わるのである」と説かれています。
【法華経に云はく「具足の道を】
法華経方便品には「仏界が凡夫に具わるという仏法の修行を
【聞かんと欲〔ほっ〕す」等云云。涅槃経に云はく「薩〔さ〕とは】
教えてもらおうと思う」と説かれています。また、涅槃経には「薩とは、妙であり、
【具足に名づく」等云云。】
それは十界がお互いに具足するという意味なのです」と説かれています。
【竜樹菩薩の云はく「薩とは六なり」等】
竜樹菩薩は「薩とは、妙であり、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧の修行を
【云云。】
完成するという六度万行の事である」と言われています。
【無依無得〔むえむとく〕大乗四論玄義記に云はく】
無依無得大乗四論玄義記には
【「沙〔さ〕とは訳〔やく〕して六と云ふ、】
「沙とは、妙であり、六と訳す、
【胡〔こ〕の法には六を以て具足の義と為すなり」と。】
インドでは六を持って六度万行を具足するという意義である」と書かれています。
【吉蔵〔きちぞう〕の疏〔しょ〕に云はく】
吉蔵の法華経疏には
【「沙とは翻〔ほん〕じて具足と為す」と。】
「沙とは、翻訳すると具足と言う意味である」と書かれています。
【天台大師の云はく「薩とは梵語〔ぼんご〕なり】
天台大師は「沙とは梵語であり
【此には妙と翻ず」等云云。】
中国語に訳すれば妙という意味である」と言われています。
【私に会通〔えつう〕を加へば】
これらの文章の意味を勝手に解説する事は、
【本文を黷〔けが〕すが如し、】
かえって引用した文章の意義を穢〔けが〕す事になるのを恐れるのですが、
【爾〔しか〕りと雖も文の心は、】
それでも、この文章の心を解説すると、
【釈尊の因行果徳の二法は】
釈迦の成仏した原因である修行と結果である功徳の二つの法は、
【妙法蓮華経の五字に具足す。】
すべて妙法蓮華経の五字に具わっていると言う事なのです。
【我等此の五字を受持すれば】
私達がこの五字を受持さえすれば、
【自然〔じねん〕に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ。】
自然に、この因果の功徳が譲り与えられるのです。
【四大声聞の領解〔りょうげ〕に云はく】
法華経信解品で四大声聞が
【「無上宝聚〔むじょうほうじゅ〕、不求自得〔ふぐじとく〕」云云。】
「無上の宝聚を求めずして自ら得たり」と言っていますが、
【我等が己心の声聞界なり。】
これは、私達、己心の声聞界がこの事を理解して喜んでいる姿なのです。
【「我が如く】
方便品には「法華経を説いて、すべての衆生に即身成仏の大法を与え、仏と衆生が
【等しくして異〔こと〕なること無し、】
等しく異なる事がなくなった。
【我が昔の所願〔しょがん〕の如き今は已〔すで〕に満足しぬ。】
これによって全ての衆生を救うという仏の誓願が今ここで完了し、
【一切衆生を化して皆仏道に入らしむ」と。】
全ての衆生を皆仏道に入らしめる事が出来たのである」と説かれています。
【妙覚の釈尊は我等が血肉〔けつにく〕なり、】
妙覚の釈尊は、私達の血肉であり、
【因果の功徳は骨髄〔こつずい〕に非ずや。】
因果の功徳は骨髄であるのです。
【宝塔品に云はく「其れ能く此の経法を譲ること有らん者は、】
宝塔品には「よくこの法華経を護る事が出来る者は、
【則ち為〔こ〕れ我及び多宝を供養するなり。】
釈迦如来と多宝如来に供養する者であり、
【乃至亦復諸〔もろもろ〕の来たりたまへる化仏の諸の世界を】
また、三世諸仏の住んでいる世界を
【荘厳〔しょうごん〕し光飾〔こうじき〕したまふ者を供養するなり」等云云。】
荘厳し光飾している者を供養しているのです。
【釈迦・多宝・十方の諸仏は】
このように釈迦、多宝、すべての分身仏は、
【我が仏界なり、】
すべて久遠元初無作三身如来である日蓮の仏界であり、
【其の跡を継紹して其の功徳を受得す。】
その後を継いで、このような末法の法華経の行者としての姿を現しているのです。
【「須臾〔しゅゆ〕も之を聞かば、】
同じく宝塔品に「少しの間でもこれを聞く者は、
【即ち阿耨多羅三藐三菩提〔あのくたらさんみゃくさんぼだい〕を】
すでに最高の悟りを得て、
【究竟〔くきょう〕するを得〔う〕」とは是なり。】
その身のままで仏であるのです」と説かれているのは、この事なのです。
【寿量品に云はく「然るに我〔われ〕実に成仏してより已来〔このかた〕、】
寿量品には「しかるに私が成仏して以来、
【無量無辺百千万億那由佗劫〔なゆたこう〕なり」等云云。】
無量無辺百千万億那由佗劫である」と説かれています。
【我等が己心の釈尊は五百塵点〔じんでん〕】
日蓮とその弟子檀那の己心の仏界は、五百塵点劫に現れた
【乃至所顕〔しょけん〕の三身にして無始〔むし〕の古仏〔こぶつ〕なり。】
三身即一身の仏であって無始無終の古仏なのです。
【経に云はく「我本〔もと〕菩薩の道を行じて】
同じく寿量品に「私がもとより菩薩の修行をして
【成〔じょう〕ぜし所の寿命、今猶〔なお〕未だ尽きず。】
生じた寿命は、今なお尽きる事がなく、
【復〔また〕上〔かみ〕の数〔すう〕に倍〔ばい〕せり」等云云。】
その五百塵点劫に倍する時間なのである」と説かれています。
【我等が己心の菩薩等なり。】
これは、日蓮と弟子旦那の己心の菩薩界であり、九界であるのです。
【地涌千界の菩薩は己心の釈尊の眷属なり。】
さらに地涌千界の菩薩は、己心の釈尊の部下であり、
【例せば太公〔たいこう〕・周公旦〔しゅうこうたん〕等は】
たとえば呂尚〔りょしょう〕太公望は、
【周武〔しゅうぶ〕の臣下、成王〔せいおう〕幼稚の眷属。】
周の武王の家来であり、周公旦は幼い成王の宰相でした。
【武内〔たけのうち〕の大臣〔おおおみ〕は】
武内の大臣は、
【神功〔じんぐう〕皇后の棟梁〔とうりょう〕、】
神功皇后の第一の家来であり、
【仁徳〔にんとく〕王子の臣下なるが如し。】
また仁徳王子にも忠義の家来がいたようなものなのです。
【上行・無辺行・浄行・安立〔あんりゅう〕行等は】
上行、無辺行、浄行、安立行などの地涌の大菩薩は、
【我等が己心の菩薩なり。】
すべて日蓮と弟子檀那の己心の菩薩なのです。
【妙楽大師云はく「当〔まさ〕に知るべし身土は一念の三千なり。】
妙楽大師は「この事をきちんと理解しなさい。身土は、一念の三千である。
【故に成道の時、此の本理に称〔かな〕ひて】
それ故に仏に成る時は、この真実の理論にもとづいて、
【一身一念法界に遍〔あまね〕し」等云云。】
一身一念が法界と一体になるのである」と言われているのです。