日蓮正宗法華講開信寺支部より

御書研鑚の集い 御書研鑽資料


観心本尊抄 26 文底下種三段の流通


第25章 文底下種三段の流通

【迹門十四品の正宗の八品は一往〔いちおう〕之を見るに、】
法華経の迹門十四品の正宗分の八品は、一往は、これを見てみると、

【二乗を以〔もっ〕て正〔しょう〕と為〔な〕し、】
二乗をもって正意とし、

【菩薩・凡夫を以て傍〔ぼう〕と為す。】
菩薩や凡夫は、その席に連なっているに過ぎないのです。

【再往〔さいおう〕之を勘〔かんが〕ふれば、凡夫正像末を以て】
しかし、これを深く考えるならば、仏滅後の正法、像法、末法の凡夫をもって

【正と為す。】
正意とするのが正しいのではないでしょうか。

【正像末の三時の中にも末法の始めを以て】
さらにその中でも末法の始めの凡夫をもって

【正が中の正と為す。】
正意の中の正意とするのが正しいのではないでしょうか。

【問うて曰く、其の証如何〔いかん〕。】
それでは、質問しますが、仮にそうであるならば、その証拠は何なのでしょうか。

【答へて曰く、法師品に云はく「而〔しか〕も此の経は如来の現在すら】
それに答えるとすると法華経の法師品には「この法華経は、釈迦の在世ですら、

【猶〔なお〕怨嫉〔おんしつ〕多し、】
なお怨嫉が多い。ましてや仏滅後には

【況んや滅度の後をや」と。】
さらに大きな怨嫉をうける」と迹門の流通分で説かれているのです。

【宝塔品に云はく】
宝塔品には、この宝塔品に来集した分身の諸仏は、

【「法をして久住〔くじゅう〕せしむ。】
釈迦牟尼仏の令法久住の心を知ると説かれており、

【乃至来たれる所の化仏〔けぶつ〕当〔まさ〕に此の意を知るべし」等と。】
在世を傍、滅後を正意としているのです。

【勧持・安楽等之〔これ〕を見るべし。】
勧持品、安楽行品に於いても同じであり、

【迹門すら是〔か〕くの如し。】
迹門ですら、このように末法の為に説かれている事が明らかなのです。

【本門を以て之を論ずれば、】
さらに法華経本門は、誰の為に説かれたかを論じるならば、

【一向に末法の初めを以て正機と為す。】
当然、末法の始めをもって正しい時期としています。

【所謂〔いわゆる〕一往之を見る時は久種〔くしゅ〕を以て下種と為し、】
ようするに一往これを見るときは久遠の過去に下種をされ、

【大通・前四味・迹門を熟〔じゅく〕と為して、】
大通智勝仏から前四味や法華経迹門までを熟益とし、

【本門に至って等妙〔とうみょう〕に登らしむ。】
本門に至って等覚、妙覚の位に登ったように見えます。

【再往之を見れば迹門には似〔に〕ず、】
しかし、これは文上の見方であって、これを見れば、迹門とは異なって

【本門は序正流通倶〔とも〕に末法の始めを以て詮と為す。】
本門は、序分、正宗分、流通分ともに末法の始めをもって正意としているのです。

【在世の本門と末法の初めは一同に】
釈尊在世の本門と末法の始めの本門は、いずれも、

【純円なり。】
すべての衆生がことごとく即身成仏する純円の教えなのです。

【但〔ただ〕し】
ただし、正法、像法時代の本門と末法の本門の相違を云うならば、

【彼は脱、此は種なり。】
正法、像法時代は、脱益であり、末法は、下種であり、

【彼は一品二半、此は但題目の五字なり。】
正法、像法時代は、一品二半であり、末法は、ただ題目の五字であるのです。


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