御書研鑚の集い 御書研鑽資料
観心本尊抄 6 観心の意義
第5章 観心の意義
【問うて曰く、】
それでは、質問しますが、
【出処〔しゅっしょ〕既〔すで〕に之を聞く、】
一念三千の法門が摩訶止観の第五に説かれていると言う事は納得しましたが、
【観心の心如何。】
観心の意味についてはどうでしょうか。
【答へて曰く、観心とは我が己心を観じて十法界を見る、】
それに答えるとすると、観心とは、自分の心を具〔つぶさ〕に観て、
【是を観心と云ふなり。】
自分の心に十法界がある(具足する)ことを知る事なのです。
【譬〔たと〕へば他人の六根〔ろっこん〕を見ると雖も、】
たとえば、他人の眼、耳、鼻などの容姿を見る事は出来ますが、
【未だ自面〔じめん〕の六根を見ざれば自具〔じぐ〕の六根を知らず、】
自分自身の容姿を見る事が出来ないように、その容姿がわからないのです。
【明鏡〔みょうきょう〕に向かふの時始めて自具の六根を見るが如し。】
明るい鏡があってこそ、はじめて自分の容姿を見る事が出来るのです。
【設〔たと〕ひ諸経の中に所々に】
たとえ爾前経の中で
【六道〔ろくどう〕並びに四聖を載〔の〕すと雖も、】
いろいろな六道、四聖を説いていると言っても
【法華経並びに天台大師所述の摩訶止観等の明鏡を見ざれば】
法華経や天台大師の述べられた摩訶止観などの明鏡がなければ、
【自具の十界・百界千如・一念三千を知らざるなり。】
自分の生命に具わっている十界、百界千如、一念三千を知る事など出来ないのです。