御書研鑚の集い 御書研鑽資料
観心本尊抄 3 止観の前四に明かさず
第2章 止観の前四に明かさず
【問うて曰〔いわ〕く、】
質問しますが、
【玄義〔げんぎ〕に一念三千の名目〔みょうもく〕を明かすや。】
法華玄義には、一念三千が書かれているのでしょうか。
【答へて曰く、妙楽〔みょうらく〕云はく「明かさず」と。】
それに答えると、妙楽大師は、書いてないと言っています。
【問うて曰く、文句〔もんぐ〕に一念三千の名目を明かすや。】
それでは、法華文句に一念三千は書かれているのでしょうか。
【答へて曰く、妙楽云はく「明かさず」と。】
それに答えると、妙楽大師は、書いてないと言っています。
【問うて曰く、其の妙楽の釈〔しゃく〕如何〔いかん〕。】
それでは、その妙楽の解釈ではどう書かれているのでしょうか。
【答へて曰く「並びに未〔いま〕だ一念三千と云はず」等云云。】
それについては、「いまだに一念三千と言わず」と書かれています。
【問うて曰く、止観の一二三四等に一念三千の名目を明かすや。】
それでは、摩訶止観の一巻から四巻までに一念三千を書いてありますか。
【答へて曰く、之〔これ〕無し、問うて曰く、其の証如何。】
いいえ、書いてはありません。それでは、その証拠はあるのでしょうか。
【答へて曰く、妙楽云はく】
証拠は、妙楽大師が
【「故に止観の正しく観法〔かんぽう〕を明かすに至って、】
「摩訶止観の正しく観法を明かしたところで、
【並びに三千を以〔もっ〕て指南と為〔な〕す」等云云。】
一念三千を指南した」と言われており、それ以前には明かしてはいません。
【疑って云はく、玄義の第二に云はく「又一法界に九法界を具すれば】
再度、尋ねますが、法華玄義の第二には、「また一法界に九法界を具えれば
【百法界に千如是」等云云。】
百法界に千如是となる」と解説してあるではないですか。
【文句第一に云はく「一入〔いちにゅう〕に十法界を具すれば一界又十界なり、】
法華文句第一には「一入法界に十法界を具われば一界がまた十界である。
【十界各〔おのおの〕十如是あれば即ち是〔これ〕一千」等云云。】
十界に各々十如是を具えていれば千如是となります」と解説されています。
【観音玄〔かんのんげん〕に云はく「十法界交互なれば即ち百法界有り、】
観音玄には「十法界が交互に具わって百法界となり、
【千種の性相、冥伏〔みょうぶく〕して心に在り、】
千種の性相は、心に現れないまま具わっているのです。
【現前せずと雖〔いえど〕も宛然として】
実際に性相が現わてはいないのですが、
【具足す」等云云。】
具わっているのです」とあり千如是のみでいずれも一念三千を明かしていません。
【問うて曰はく、】
もう一度、質問しますが、
【止観の前の四に一念三千の名目を明かすや。】
摩訶止観の四巻の以前に一念三千は、明かしていないのですね。
【答へて曰く、妙楽云はく「明かさず」と。】
それに答えると、妙楽大師は、書いてないと言っています。
【問うて曰はく、其の釈如何。答ふ、弘決第五に云はく】
それでは、その妙楽大師の解釈ではどうですか。それは、弘決の第五に
【「若し正観〔しょうかん〕に望めば】
「もし、摩訶止観の第五の正観に相対すれば、それまでの一巻から四巻までは、
【全く未だ行を論ぜず。】
未だ実際の修行方法を論じていないのです。
【亦〔また〕二十五法に歴〔へ〕て事〔じ〕に約して解〔げ〕を生ず、】
また、二十五法の修行などを明かし、具体的な問題の解決法として書いてあります。
【方〔まさ〕に能〔よ〕く正修の方便と為すに堪〔た〕へたり、】
しかし、これらは、正しく修行をする為の仮の修行だったのです。
【是〔こ〕の故に前の六をば】
これ故に前六章までは、
【皆解に属す」等云云。】
すべて理解をする為に説かれたもので正しい修行ではなかったのです」とあります。
【又云はく「故に止観の正〔まさ〕しく】
また「それ故に摩訶止観によって正しく
【観法を明かすに至って、並びに三千を以て指南と為す、】
観法を明かす際に一念三千によってそれを指南した。
【乃〔すなわ〕ち是〔これ〕終窮〔しゅうぐ〕】
ようするに、これが最終的な
【究竟〔くきょう〕の極説〔ごくせつ〕なり。】
究極の結論である。
【故に序の中に、説己心中所行法門と云ふ、】
それ故に止観会本、章安の序の中で、己心の中で修行するところの自行の法門、
【良〔まこと〕に以〔ゆえ〕有るなり。】
一念三千を説く、とあるが、
【請〔こ〕ふ、尋〔たず〕ね読まん者心に】
願わくは、これを読む者は、この点を心において、
【異縁〔いえん〕無〔な〕かれ」等云云。】
間違って読む事がないようにしなければならない」と書かれているのです。