日蓮正宗法華講開信寺支部より

御書研鑚の集い 御書研鑽資料


観心本尊抄 14 教論の難問


第13章 教論の難問

【答へて曰く、】
それでは、それに答えましょう。

【此の難最も甚〔はなは〕だし最も甚だし、】
今、質問された事は、難問中の難問であり、最も説明する事が難しいものです。

【但し諸経と法華との相違は】
しかし、爾前の諸経と法華経との相違は、

【経文より事起〔お〕こりて分明なり。】
経文に説き示された事実によって明らかでしょう。

【未顕〔みけん〕と已顕〔いけん〕と、】
爾前経は未顕真実、正直捨方便と説かれ、法華経は但説無上道とあります。

【証明〔しょうみょう〕と】
法華経は多宝如来、十方分身諸仏の証明がされていますが

【舌相〔ぜっそう〕と、】
爾前経にはこのような証明はありません。

【二乗の成不と、始成〔しじょう〕と】
爾前経では二乗が不成仏、始成正覚を説き、法華経では一切衆生皆成仏道、

【久成〔くじょう〕等之を顕はす。諸論師の事、天台大師云はく】
久遠実成を説き顕わしています。次に論師の非難については、天台大師は

【「天親・竜樹、内鑑冷然〔ないがんれいねん〕たり、】
「天親や竜樹は一念三千の法門を心の中では知っていたが、

【外には時の宜〔よろ〕しきに適〔かな〕ひ】
外に対しては、正法時代に合った

【各〔おのおの〕権に拠〔よ〕る所あり。】
権大乗経を弘めたのです。

【而るに人師偏〔ひとえ〕に解し、学者苟〔いや〕しくも執し、】
しかし、その後の人師達は、自らの意見に執着して、

【遂〔つい〕に矢石〔しせき〕を興〔おこ〕し】
仏教学者がその我見によっていがみあい

【各一辺を保ちて大いに聖道に乖〔そむ〕けり」等云云。】
釈尊の真意に背反してしまった」と言われています。

【章安大師云はく「天竺の大論すら尚〔なお〕其の類〔たぐい〕に非ず、】
章安大師は「仏教の発祥地たるインドの大論師さえ、なお天台には及ばない。

【真旦〔しんだん〕の人師何ぞ労〔わずら〕はしく語るに及ばん、】
ましてや中国の論師など、どうして論ずる必要があるでしょうか。

【此誇耀〔こよう〕に非ず法相〔ほっそう〕の】
これはうぬぼれではなく天台の解釈が

【然〔しか〕らしむるのみ」等云云。】
優れているから言うのである」と言われています。

【天親・竜樹・馬鳴・堅慧等は内鑑冷然なり。】
天親、竜樹、馬鳴、堅慧などの菩薩達は、内心では一念三千を知っていましたが、

【然りと雖も時未〔いま〕だ至らざるが故に之を宣べざるか。】
未だ正法時代で法華経流布の時ではなかったので、これを弘通しなかったのです。

【人師に於ては天台已前〔いぜん〕は或は珠〔たま〕を含み】
それ以外の正法時代や像法時代の人師は、あるいは一念三千の珠を内心に含み、

【或は一向に之を知らず。已後〔いご〕の人師は】
あるいは、まったくこれを知らなかったのです。また天台以後の人師達は、

【或は初めに之を破して後に帰伏〔きぶく〕する人有り、】
初めは一念三千の法門を認めなかったものの後には信じる者もあり、

【或は一向に用ひざる者も之有り。】
また、まったく信じなかった者もありました。

【但し「諸法の中の悪を断じたまへり」の】
しかし、方便品の「諸法の中の悪を断じ給えり」の

【経文を会〔え〕すべきなり。】
文章を理由に論難している点をはっきりさせなければなりません。

【彼は法華経に】
この法華経の方便品の文章は、爾前経の意義を説いている文であるから、

【爾前を載せたる経文なり。】
爾前経に十界互具が書いてある事を否定しているようにみえます。

【往〔ゆ〕いて之を見るに、経文】
しかし、この法華経の文章をよくよく開いて、これを見たならば、

【分明に十界互具之〔これ〕を説く。】
明確に爾前経の中に十界互具を説いていることがわかるのです。

【所謂〔いわゆる〕「衆生をして仏知見を開かしめんと欲す」等】
ようするに「衆生をして仏の知見を開かしめんと欲す」とは、

【云云。】
衆生に仏の知見が本来具わっている事を説いている事は明らかなのです。

【天台此の経文を承〔う〕けて云はく】
それ故に天台は、この経文を解釈して

【「若し衆生に仏の知見無〔な〕くんば何ぞ開を論ずる所あらん。】
「もし衆生に仏の知見が無いなら、どうやって開く事が出来るでしょうか。

【当〔まさ〕に知るべし、仏の知見衆生に蘊在〔うんざい〕することを」云云。】
まさに仏の知見が衆生の本性に具わっていると知るべきである」と言われています。

【章安大師の云はく「衆生に若し仏の知見無くんば】
章安大師は、さらにこれについて「衆生にもし仏の知見が無いならば、

【何ぞ開悟する所あらん。】
どうして仏知見を開いたり悟ったりする事が出来るでしょうか。

【若し貧女に蔵〔くら〕無くんば】
もし、貧乏な女性に蔵がないのであれば、

【何ぞ示す所あらんや」等云云。】
なぜ、その蔵の中身を示す必要があるのでしょうか」と言っているのです。


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