日蓮正宗法華講開信寺支部より

御書研鑚の集い 御書研鑽資料


報恩抄 12 伝教大師の弘通


第11章 伝教大師の弘通

【又日本国には、人王第三十代欽明天皇の御宇十三年壬申十月十三日に、】
また日本では、第30代欽明天皇の時代、13年10月13日に

【百済〔くだら〕国より一切経・釈迦仏の像をわたす。】
朝鮮半島の百済の国より、すべての経文と釈迦牟尼仏の仏像が渡って来ました。

【又用明天皇の御宇に聖徳太子仏法をよみはじめ、】
また用明天皇の時代には、聖徳太子が仏教を研究し、

【和気妹子〔わけのいもこ〕と申す臣下を漢土につかはして、】
和気妹子と言う臣下を中国に遣〔つか〕わして、

【先生〔せんじょう〕の所持の一巻の法華経をとりよせ給ひて】
先に持っていた法華経一巻の後の巻を取り寄せて、

【持経と定め、其の後人王第三十七代に孝徳天王の御宇に、】
これを自らの根本の経法と定められました。その後、第37代孝徳天皇の時代に

【三論宗・華厳宗・法相宗・倶舎宗・成実宗わたる。】
三論宗、華厳宗、法相宗、倶舎宗、成実宗が日本に渡って来ました。

【人王第四十五代に聖武天皇の御宇に律宗わたる。】
第45第聖武天皇の時代には、律宗が渡って来て、

【已上六宗なり。】
これで日本では、六つの宗派となりました。

【孝徳より人王第五十代の桓武天王にいたるまでは】
第37代孝徳天皇より第50代桓武天王に至るまでの

【十四代一百二十余年が間は天台・真言の二宗なし。】
十四代一百二十余年の間は、天台宗と真言宗の二宗はなかったのです。

【桓武の御宇に最澄〔さいちょう〕と申す小僧〔しょうそう〕あり。】
桓武天皇の時代になって最澄と言う僧侶が出て、

【山階寺〔やましなでら〕の行表〔ぎょうひょう〕僧正〔そうじょう〕の】
山階寺の行表僧正の

【御弟子なり。】
弟子となりました。

【法相宗を始めとして六宗を習ひきわめぬ。】
そして法相宗を始めとして日本に渡っていた六宗派を習い極めましたが、

【而れども仏法いまだ極めたりともをぼえざりしに】
仏法を未だ極めたとも思えず、

【華厳宗の法蔵法師が造りたる起信論〔きしんろん〕の疏〔しょ〕を見給うに、】
華厳宗の法蔵法師が著した起信論の疏〔しょ〕を見て、

【天台大師の釈を引きのせたり。此の疏こそ子細ありげなれ。】
その中に天台大師の解釈が引用されていました。これこそ、正しいのではないか。

【此の国に渡りたるか、又いまだわた〔渡〕らざるかと】
この解釈書は、日本に渡っているのか、未だに渡って来ていないのかと思って、

【不審ありしほどに、有る人にと〔問〕ひしかば、】
ある人に質問したのですが、

【其の人の云はく、大唐の揚州〔ようしゅう〕竜興寺〔りゅうこうじ〕の僧】
その人は、答えて言うのには、大唐揚州の竜興寺の僧で

【鑑真〔がんじん〕和尚は天台の末学道暹律師〔どうせんりっし〕の弟子、】
鑑真和尚と言う者は、天台宗である道暹律師の弟子であり、

【天宝の末に日本国にわたり給ひて、小乗の戒を弘通せさせ給ひしかども、】
天宝時代の末に日本に渡って来ていたが、小乗経の戒律を弘めたけれども、

【天台の御釈を持ち来たりながらひろめ給はず。】
天台大師の解説書を持ちながら、それを日本で弘めなかったのである。

【人王第四十五代聖武天王の御宇なりとかた〔語〕る。】
それは、第45代聖武天皇の時代の事ですと語ったのです。

【其の書を見んと申されしかば、取り出だして見せまいらせしかば、】
最澄は、その解説書を読もうと思い、それを即座に取り寄せて読んでみると、

【一返御らんありて生死の酔〔よ〕ひをさましつ。】
すぐに今までの疑問が解けて生死の迷いがなくなり、

【此の書をもって六宗の心を尋ねあき〔明〕らめしかば、】
この解説書を読んで日本に渡って来ていた六宗派の理論の矛盾を明らかにして、

【一々に邪見なる事あらはれぬ。】
すべて邪見である事がわかったのです。

【忽〔たちま〕ちに願〔がん〕を発〔おこ〕して云はく、】
すぐにそれを止めさせようと願って、

【日本国の人皆謗法の者の檀越〔だんのつ〕たるが、】
日本の人々が間違った宗派を信じ、謗法の者となっているので、

【天下一定〔じょう〕乱れなんずとをぼして六宗を難ぜられしかば、】
天下は、いつも乱れているであると六宗派を破折すると、

【七大寺六宗の碩学〔せきがく〕蜂起〔ほうき〕して、】
南都の七大寺の六宗派の学者の人々は、すぐに蜂起して、

【京中烏合〔うごう〕し、天下みなさわぐ。】
都の人々は、右往左往して、天下は騒然となり、

【七大寺六宗の諸人等悪心強盛なり。】
七大寺の六宗派の人々は、みんな最澄を憎み恨むこと尋常ではなかったのです。

【而るを去ぬる延暦〔えんりゃく〕二十一年正月十九日に】
その後、延暦21年1月19日に

【天王高雄〔たかお〕寺に行幸〔みゆき〕あって、】
桓武天皇は、高雄寺に行って、

【七寺の碩徳十四人、善議〔ぜんぎ〕・】
七大寺の者、十四人、善議、

【勝猷〔しょうゆう〕・奉基〔ほうき〕・寵忍〔ちょうにん〕・】
勝猷、奉基、寵忍、

【賢玉〔けんぎょく〕・安福〔あんぷく〕・】
賢玉、安福、

【勤操〔ごんそう〕・修円〔しゅえん〕・慈誥〔じこう〕】
勤操、修円、慈誥、

【玄耀〔げんよう〕・歳光〔さいこう〕・道証〔どうしょう〕・】
玄耀、歳光、道証、

【光証〔こうしょう〕・観敏〔かんびん〕等十有余人を召し合はす。】
光証、観敏などを呼び出して、最澄と公〔おおやけ〕の場で対決させたのです。

【華厳・三論・法相等の人々、】
華厳宗、三論宗、法相宗の人々は、

【各々我が宗の元祖が義にたがはず。】
それぞれ自らの宗派の元祖の義が正しいと述べましたが、

【最澄上人は六宗の人々の所立一々に牒〔ちょう〕を取りて、】
最澄は、六宗派の人々の言葉を一々に取り上げ、

【本経本論並びに諸経諸論に指し合はせてせ〔責〕めしかば一言も答えず、】
本経、本論、諸経、諸論に照らし合わせ、その矛盾を責めると一言も答えられずに、

【口をして鼻のごとくになりぬ。】
口をつぐんで鼻と同様になり、何も言えなくなったのです。

【天皇をどろき給ひて、委細〔いさい〕に御たづねありて、】
桓武天皇は、この事に驚いて、最澄に詳しく話を聞き、

【重ねて勅宣を下して十四人をせめ給ひしかば、】
重ねて命令を出して、この十四人を問いただすと

【承伏の謝表を奉りたり。】
自分の間違いをようやく認めたのでした。

【其の書に云はく「七箇の大寺、六宗の学匠、】
その時の書類には、「七箇の大寺、六宗派の学匠は、

【乃至初めて至極を悟る」等云云。】
最澄の説によって初めて至極を悟る」と書かれており、

【又云はく「聖徳の弘化〔ぐけ〕より以降〔このかた〕、】
また「聖徳太子の時代に仏法が弘められて以来、

【今に二百余年の間、講ずる所の経論其の数多し。】
いままで二百年の間、講義されて来た経論は、数多くあり、

【彼此〔ひし〕理を争って其の疑ひ未だ解けず。】
それぞれの宗派が正しいと言って理論を争い、未だにそれが解決せず、

【而るに此の最妙の円宗猶〔なお〕未だ闡揚〔せんよう〕せず」等云云。】
この最も尊い完全な法華経の理論は広まっていない」と言われているのです。

【又云はく「三論・法相、久年の諍〔あらそ〕ひ、】
また「三論宗、法相宗などが長く争っていたが、

【渙焉〔かんえん〕として氷のごとく解け、】
この最澄によって、氷が溶けて水になるように、

【昭然として既に明らかにして、】
太陽が昇って天地が明らかになるように、

【猶雲霧〔うんむ〕を披〔ひら〕いて三光を】
雲や霧が晴れて日、月、星の光が輝き始めるように

【見るがごとし」云云。最澄和尚、十四人が義を判じて云はく】
解決したのである」と言っているのです。最澄は、十四人の邪義を批判して

【「各〔おのおの〕一軸を講ずるに法鼓〔ほっく〕を】
「各々が法華経の一軸を論議はしているが、すべて自らが正しいと思って

【深壑〔しんがく〕に振るひ、】
自分勝手に理解している故に、まるで深い谷に堕ち、

【賓主〔ひんしゅ〕三乗の路〔みち〕に徘徊〔はいかい〕し、】
旅人が声聞、縁覚、菩薩の三乗の道を徘徊しながら、

【義旗〔ぎき〕を高峰に飛ばす。】
高い山の頂にある法華経と云う旗印を見ているのと同じであったのです。

【長幼三有〔う〕の結を摧破〔さいは〕して、】
そうやって幼稚な三界の六道の者を論破するのは良いが、

【猶〔なお〕未だ歴劫〔りゃっこう〕の轍〔てつ〕を改めず、】
それでは未だに歴劫修行をしなければならず、

【白牛〔びゃくご〕を門外に混ず。】
一仏乗をそれと同じに扱っている。

【豈〔あに〕善〔よ〕く初発〔しょほつ〕の位に昇り、】
それでは、どうやって始めて仏教を志す者が妙覚の位の者となって

【阿荼〔あだ〕を宅内〔たくない〕に悟らんや」等云云。】
火宅の中で悟る事が出来るであろうか」と言われているのです。

【弘世〔ひろよ〕・真綱〔まつな〕二人の臣下云はく】
この議論を見ていた和気〔わけ〕の弘世と真綱の二人の兄弟は

【「霊山の妙法を南岳に聞き、総持の妙悟を天台に闢〔ひら〕く。】
「霊鷲山で説法の妙法を南岳大師が聞き、総持の妙悟を天台大師によって開かれた。

【一乗の権滞〔ごんたい〕を慨〔なげ〕き、】
その一仏乗であると思っていた仏教が権経であった事を嘆き、

【三諦の未顕を悲しむ」等云云。】
三諦円融では、なかった事を深く悲しむものである」と言っているのです。

【又十四人の云はく「善議等牽〔ひ〕かれて】
また六宗派の十四人は「善議などは、

【休運に逢〔あ〕ひ、乃〔すなわ〕ち奇詞〔きし〕を閲〔けみ〕す。】
幸いにも運に恵まれて最澄の素晴らしい奥義を聞く事が出来た。

【深期〔じんご〕に非ざるよりは】
これは、過去世からの深い因縁でなければ、

【何ぞ聖世に託せんや」等云云。】
どうしてこの正しい事に巡り逢う事が出来るだろうか」と言いました。

【此の十四人は華厳宗の法蔵・審祥〔しんじょう〕、】
この14人は、華厳宗の法蔵、審祥、

【三論宗の嘉祥〔かじょう〕・観勒〔かんろく〕、法相宗の慈恩・道昭、】
三論宗の嘉祥、観勒、法相宗の慈恩・道昭、

【律宗の道宣・鑑真等の】
律宗の道宣、鑑真などの

【漢土日本の元祖等の法門、】
中国と日本におけるそれぞれの宗派の元祖の法門を伝えて来た事は、

【瓶〔かめ〕はか〔替〕はれども】
器〔うつわ〕は変わっても

【水は一つなり。】
中の水は変わらず一つであるように、人は変わっても中身はまったく同じなのです。

【而るに十四人、彼の邪義をすてゝ伝教の法華経に帰伏しぬる上は、】
この14人は、それぞれの宗派の邪義を捨てて、伝教の法華経に帰依しているのに

【誰の末代の人か、華厳・般若・深密経等は】
その後に誰が、華厳経、般若経、深密経は、

【法華経に超過せりと申すべきや。】
法華経より優れていると言えるのでしょうか。

【小乗の三宗は又彼の人々の所学なり。】
当然、小乗経の成実宗、倶舎宗、律宗の三宗は、この人々が学んで来たものであり、

【大乗の三宗破れぬる上は、】
この大乗経の華厳経、般若経、深密経が法華経に敗れた以上は、

【沙汰〔さた〕のかぎりにあらず。而るを今に子細を知らざる者、】
それらも当然、敗れているのです。しかし、現在においてもそれを知らない者は、

【六宗はいまだ破られずとをもへり。】
六宗派は、未だ敗れていないと思っているのです。

【譬へば盲目〔めしい〕が天の日月を見ず、】
それは、目の見えない者が空の日月を見ずに、

【聾人〔みみしい〕が雷〔いかずち〕の音をきかざるがゆへに、】
また、耳が聞こえない者が雷の音を聞かずに、

【天には日月なし、空に声なしとをも〔思〕うがごとし。】
空に日月もなく、空に音が鳴っていないと思っているのと同じなのです。


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