御書研鑚の集い 御書研鑽資料
報恩抄 14 弘法の真言密教
第13章 弘法の真言密教
【又石淵〔いわぶち〕の勤操〔ごんそう〕僧正〔そうじょう〕の】
大和国(奈良県)石淵寺の勤操僧正の
【御弟子に空海と云ふ人あり。後には弘法大師とがう〔号〕す。】
弟子に空海と言う者が居ました。後には、弘法大師と名乗ります。
【去ぬる延暦廿三年五月十二日に御入唐、】
去る延暦23年5月12日に唐に渡り、
【漢土にわたりては金剛智・善無畏の両三蔵の第三の御弟子、】
中国においては、金剛智三蔵、善無畏三蔵の第三代目の弟子、
【恵果〔けいか〕和尚といゐし人に両界を伝受、】
恵果和尚に金剛界、胎蔵界の両界曼荼羅を伝受され、
【大同二年十月二十二日に御帰朝、平城〔へいぜい〕天王の御宇なり。】
大同2年10月22日に日本へ帰って来ました。平城天皇の時代の事です。
【桓武〔かんむ〕天王は御ほうぎょ〔崩御〕、】
その時には、すでに桓武天皇は、亡くなっており、
【平城天王に見参〔げんざん〕し御用ひありて】
平城天皇に会い、天皇も深く弘法を信用して
【御帰依他にこと〔異〕なりしかども、】
帰依され、しばらくは何事もなかったようですが、
【平城ほどもなく嵯峨〔さが〕に世をとられさせ給ひしかば、】
その平城天皇も退位され、嵯峨天皇が即位しましたが、
【弘法ひき入れて有りし程に、】
やはり弘法を深く信じ、
【伝教大師は嵯峨の天王、弘仁〔こうにん〕十三年六月四日御入滅、】
伝教大師は、この嵯峨天皇の時代、弘仁13年6月4日に入滅しました。
【同じき弘仁〔こうにん〕十四年より、弘法大師、王の御師となり、】
同じく弘仁14年より、弘法大師は、嵯峨天皇の師となり、
【真言宗を立てゝ東寺を給ひ、】
真言宗を立てて東寺をもらい、
【真言和尚とがう〔号〕し、此より八宗始まる。】
真言和尚と名乗って、これから八宗派が始まるのです。
【一代の勝劣を判じて云はく、】
そして釈迦牟尼仏一代の経文の優劣を
【第一真言大日経・第二華厳・第三は法華涅槃等云云。】
第一は真言大日経、第二は華厳経、第三は法華経や涅槃経などとしました。
【法華経は阿含・方等・般若等に対すれば真実の経なれども、】
法華経は、阿含経や方等経、般若経などに対すれば真実の経であるけれども、
【華厳経・大日経に望むれば戯論〔けろん〕の法なり。】
華厳経や大日経に対しては、まったく、つまらない理論の法である。
【教主釈尊は仏なれども、】
教主釈尊は、仏であるけれども
【大日如来に向かふれば無明〔むみょう〕の辺域〔へんいき〕と申して、】
大日如来に対しては、無明の辺域と言って
【皇帝と俘囚〔えびす〕とのごとし。】
皇帝と捕虜のような関係であるとしました。
【天台大師は盜人なり、真言の醍醐〔だいご〕を盜んで、】
さらに天台大師は、盜人〔ぬすっと〕であり真言の奥義を盜んで
【法華経を醍醐というなんどか〔書〕ゝれしかば、】
法華経の奥義と言っていると書きつらね、
【法華経はいみじとをもへども、】
法華経は、優れていると言いながら、
【弘法大師にあひぬれば物のかずにもあらず。】
弘法に会うと法華経も物の数にもあらずと言っているのです。
【天竺の外道はさて置きぬ。漢土の南北が、法華経は涅槃経に対すれば】
インドの外道はさておいて、中国の南三北七が法華経は、涅槃経に対すれば
【邪見の経といゐしにもすぐれ、】
邪見の経文だと言った事よりも大きな間違いであり、
【華厳宗が、法華経は華厳経に対すれば】
華厳宗が法華経は、華厳経に対すれば
【枝末教と申せしにもこへたり。】
枝葉末節の経であるとした事よりも甚だしい間違いであるのです。
【例へば彼の月氏の大慢〔だいまん〕婆羅門〔ばらもん〕が】
たとえばインドの大慢バラモンが
【大自在天〔だいじざいてん〕・】
大自在天、
【那羅延天〔ならえんてん〕・婆薮天〔ばそてん〕・】
那羅延天、婆薮天、
【教主釈尊の四人を高座の足につくりて、】
さらに教主釈尊の四人の像を高座の足として、
【其の上にのぼって邪法を弘めしがごとし。】
その上に昇って邪法を弘めたのと同じなのです。
【伝教大師御存生〔ぞんしょう〕ならば、】
もし、伝教大師さえ生きていたならば、
【一言は出〔い〕だされべかりける事なり。】
必ず一言のもとに破折されたのに違いないのです。
【又義真・円澄・慈覚・智証等もいかに】
また、伝教大師の弟子である義真や円澄、慈覚、智証なども、
【御不審はなかりけるやらん。】
どうしてこれを不審に思い破折しなかったのでしょうか。
【天下第一の大凶なり。】
これこそ世の中で最大の災いであり、間違いではないでしょうか。