日蓮正宗法華講開信寺支部より

御書研鑚の集い 御書研鑽資料


報恩抄 16 智証の真言転落


第15章 智証の真言転落

【智証大師は本朝にしては、義真〔ぎしん〕和尚・】
智証大師は、日本の義真和尚や

【円澄〔えんちょう〕大師〔だいし〕・別当〔べっとう〕・】
円澄大師、別当の光定、

【慈覚〔じかく〕等の弟子なり。】
慈覚大師などの弟子です。

【顕密の二道は、】
そうであるから、当然、顕教と密教に二つの違いについては、

【大体此の国にして学し給ひけり。】
だいたい日本にいる間に学んでいた事でしょう。

【天台・真言の二宗の勝劣の御不審に、】
しかし、天台と真言の宗派の優劣については、

【漢土へは渡り給ひけるか。】
未だに不明で中国へ渡ったのでしょうか。

【去ぬる仁寿〔にんじゅ〕二年に御入唐、漢土にしては、】
去る仁寿2年に中国に着いて、

【真言宗は法全〔ほっせん〕・元政〔げんせい〕等にならはせ給ひ、】
そこでは、真言宗の法全や元政などに学び、

【大体大日経と法華経とは】
やはり大日経と法華経とは、理論は同じであるが事実の上においては、

【理同事勝、慈覚の義のごとし。】
真言が上であると思ったのは慈覚大師と同じでした。

【天台宗は良□〔りょうしょ〕和尚にならひ給ふ。】
天台宗では、良□〔りょうしょ〕和尚に学びました。

【真言・天台の勝劣、大日経は華厳・法華等には及ばず等云云。】
そこでは、大日経は、華厳経や法華経には及ばずと言われたのです。

【七年が間漢土に経て、去ぬる貞観元年五月十七日御帰朝。】
七年間、中国に留学し、去る貞観元年5月17日に日本に帰って来ました。

【大日経の旨帰〔しき〕に云はく「法華尚及ばず、】
大日経についての帰国の報告に「法華経ですら大日経にはかなわない。

【況んや自余の教をや」等云云。】
ましてや他の経など問題ではない」などと言っているのです。

【此の釈は法華経は大日経には劣る等云云。】
この意味するところは、法華経は大日経に劣ると言うものです。

【又授決集に云はく「真言禅門乃至若し華厳・法華・】
また、授決集には「真言宗や禅宗は、華厳経、法華経、

【涅槃等の経に望むれば是摂引門〔しょういんもん〕なり」等云云。】
涅槃経を理解する為のものである」などとも述べています。

【普賢経の記・論の記に云はく「同じ」等云云。】
同時に智証大師が著した普賢経の記や論の記にも、それと同じ事が書かれています。

【貞観八年丙戌四月廿九日壬申、勅宣を申し下して云はく】
貞観8年4月29日に天皇の命令に答えて

【「如聞〔きくならく〕、真言・止観両教の宗、同じく醍醐と号し、】
「いわゆる真言と摩訶止観の両宗派は、同じく仏教の真髄であり、

【倶〔とも〕に深祕〔じんぴ〕と称す」等云云。】
ともに仏教における深秘の法門である」と述べています。

【又六月三日の勅宣に云はく「先師既に】
さらに6月3日の命令には「伝教大師は、

【両業を開いて以て】
既にこの止観業と遮那〔しゃな〕業の両業を開いて、

【我が道と為〔な〕す。代々の座主〔ざす〕相承〔そうじょう〕して】
天台宗の修行と定めております。それを代々の座主が相承しており、

【兼ね伝へざること莫〔な〕し。】
それ以外を伝えて来なかったと言う事はないのですから、

【在後の輩、豈〔あに〕旧迹〔きゅうせき〕に乖〔そむ〕かんや。】
その後の者が、それをとやかく言う事は出来ないのです。

【如聞、山上の僧等、専ら先師の義に違いて】
聞くところによると、比叡山の僧は、天台大師のこの言葉に背いて

【偏執〔へんしゅう〕の心を成す。】
勝手な事を言っているようですが、

【殆〔ほとん〕ど余風を扇揚〔せんよう〕し、】
それは、ほとんど真言宗を宣伝し、

【旧業を興隆するを顧みざるに似たり。】
天台宗のかつての興隆を顧みない態度と言わざるを得ないのです。

【凡〔およ〕そ厥師資〔そのしし〕の道、】
およそ、師から伝わって来た止観業と遮那業の両業の道の

【一を欠〔か〕くも不可なり。】
一つでも欠いてはいけないのであり、

【伝弘の勤め寧〔むし〕ろ兼備せざらんや。】
それを両方とも間違いなく伝える事が大事なのです。

【今より以後、宣しく両教に通達〔つうだつ〕するの人を以て】
これからは、顕教である摩訶止観と密教である真言、遮那業の両方に秀でた者を

【延暦寺の座主と為し、立てゝ恒例と為すべし」云云。】
延暦寺に座主として両業を立てる事とすると言ってるのです。


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