日蓮正宗法華講開信寺支部より

御書研鑚の集い 御書研鑚資料


南条時光御消息文 01 南条時光について

南条時光について

南条時光〔なんじょうときみつ〕は、正式には、南条七郎次郎時光と言い、日蓮大聖人、御在世の鎌倉時代、駿河国富士上方上野郷、現在の静岡県富士宮市上条付近一帯の地頭で、上野殿と称されました。
大石寺第三祖日目上人の叔父にあたります。
時光の父の兵衛七郎〔ひょうえしちろう〕は、もともと伊豆国南条、現在の静岡県、伊豆の国市、南条に住み、のちに富士上野に移ったので、「南条殿」とも「上野殿」とも呼ばれており、鎌倉幕府に使えていたことから、当時、鎌倉で弘教されていた日蓮大聖人に御会いして入信し、信仰に励んだものと思われます。
しかし、文永2年(西暦1265年)3月8日、時光が7歳のときに、幼い9人の子供を残して病気で亡くなりました。
大聖人は、兵衛七郎の死を深く悼み、富士上野まで足を運ばれ、墓参をされています。
時光の母は、弘安元年(西暦1278年)11月に死去した駿河国庵原〔いはら〕郡松野に住む松野六郎左衛門入道の娘であり、夫の兵衛七郎が死去した後に尼となりましたが、その時には、すでに懐妊しており、それが末息子の七郎五郎でした。
また六老僧の一人、蓮華阿闍梨日持は、この松野六郎左衛門入道の次男とされています。
時光が父の家督を継ぎ、亡父と同様に日蓮大聖人を師と仰ぎ、佐渡配流を赦免され身延山に大聖人が入られると、数々の供養の品々を送り続けられ、また、多くの御書を頂いています。
その御書には、時光の事を「形見として、故上野殿の姿を若くしたような子息を遣わし、置かれたのでしょうか、時光殿は、姿も違わないばかりか、心まで似ていることは、言いようもありません。」と書き著され、時光が父の兵衛七朗によく似ている上に、信心も立派に受け継いでいることを大変喜ばれました。
文永12年の正月には、日蓮大聖人は、兵衛七朗の墓参の為に、日興上人を南条家に遣わされ、これを機に日興上人と南条家との深い縁が結ばれました。
このころ、日興上人は、富士山麓一帯において折伏を展開され、時光も日興上人に従い、懸命に大聖人の教えを弘めました。
そして、松野氏、新田氏、石川氏などにも正しい信仰を勧め、これらの人々を入信に導いたのです。
また、日興上人の弘通によって、天台宗滝泉寺の僧侶であった日秀、日弁、日禅などや、富士近郊の人々が多く改宗、帰依し、大聖人の弟子檀那となりました。
このような法華経の僧侶や信徒の増加を妬(ねた)み恨(うら)んだ滝泉寺院主代、行智をはじめ、他宗の人々は、権力者の力を借りて熱原の信徒を迫害し、熱原の法難が起きたのです。
この法難は、建治元年(西暦1275年)頃から始まり、弘安2年(西暦1279年)に激しさを増し、同年9月には、行智などの陰謀によって、熱原の農民信徒20名が無実の罪で捕まり、鎌倉に連行されるという事態に至りました。
農民信徒は、北条家の重臣、平左衛門尉頼綱の拷問を受け、改宗を迫られましたが、その脅迫に屈せず題目を唱え続けた為、怒り狂った頼綱により、中心者の神四朗、弥五朗、弥六郎が斬罪に処せられたのです。
この法難に際して、時光は、日蓮大聖人、日興上人の御指南を受けて、熱原の信徒を団結させ、身に危険の迫った人々をかくまうなど、命をかけて幕府の弾圧と戦ったのです。
日蓮大聖人は、この時の時光の働きを称賛されて「上野賢人」との尊称を贈られています。
弘安三年(西暦1280年)9月5日に弟の七郎五郎が死去した時には、時光の母の悲嘆は、並々ならぬものであったようで、大聖人からたびたび励ましの御言葉を頂いています。
その後も、分不相応の土木事業を言い付けられるなど、数々の幕府の迫害により、暮らしもひっ迫し、弘安4年(西暦1281年)の夏頃から、24歳の時光は、病〔やまい〕に倒れ、翌年2月には、病状が悪化しました。
その知らせを受けた大聖人は、御自身も病床にあられましたが、時光の快方を祈られ、御秘符を下付されました。
その結果、大病を克服し、その後、五十年もの寿命を延ばして、74歳の長寿を全うすることができたのです。
弘安5年(西暦1282年)10月13日 武蔵国池上における日蓮大聖人の御入滅に際しては、時光は、葬儀に馳せ参じ、散華の役を勤めました。
また、日興上人が大聖人の御霊骨を奉じて身延に帰る途中には、南条家に一泊されています。
七年後の正応2年(西暦1289年)、時光は、地頭・波木井実長の謗法によって身延を離山された日興上人を、自らの領地の富士上野の地に御迎えしました。
さらに、日興上人が大聖人御遺命の本門戒壇建立の地と定められた大石ヶ原を寄進して、総本山大石寺の基礎を築いたのです。
翌、正応3年(西暦1290年)、大坊が完成して大石寺の基礎が定まった後も、時光は、日興上人を生涯の師と仰ぎ、日目上人を始め、多くの御僧侶を輩出し、総本山および宗門を外護されました。
晩年は、入道して大行〔だいぎょう〕と名乗り、元弘2年(西暦1332年)5月1日、時光は、日興上人に先立ち74歳の一生を安らかに終えました。
時光の墓碑は、大石寺の南南西約2キロの高土(たかんど)の地(富士宮市下条)に、雄大な富士山と総本山を望むように建っています。
また、現在では、大石寺の開基檀那として、法名は、大行尊霊と呼ばれ、総本山大石寺において、祥月命日忌の法要として毎年5月1日に大行会〔だいぎょうえ〕が奉修されています。


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